人生では何かを成し遂げることが求められている。それは日々の些細な事かもしれないし、人生を賭けた大事なことかもしれない。
何を成し遂げるのかは人それぞれだ。私たちは、自分が成し遂げる何かを見出して、それに向かって人生を生きていく。
何かを成し遂げるということには二つの道がある。ひとつはこの身体と心が「世界で何を成し遂げる」ということだ。
そして、もうひとつは自分自身の中に「本当の自分自身を見つけること」を成し遂げるということだ。
これらは同じ「成し遂げること」であっても意味が違う。世界と私たちの関係においては、「世界で何を成し遂げるか」ということだ。私たちはこのことを重要視している。
本当の自分を見つけることは、世界で何かを成し遂げることではない。世界とはまったく関係のない「自分自身の中において成し遂げること」だ。
そこでは世界と本当の自分を見つけることを関連付ける必要はない。それは世界との関係性を断つことによって見出される。
だが、私たちは本当の自分を見つけられれば、世界との関係も改善すると思って、本当の自分を見つけることを世界の中に引っ張りだそうとする。
それによって効率的に自分の「世界で成し遂げること」とつなげようとするのだ。そのようにつなげようとするのは私たちの個人的エゴとマインドだ。
そこにつなげてしまえば、個人的エゴとマインドの思惑が渦巻く世界に、せっかく見つけた内なる本当の自分自身を捨て去ることになる。
本当の自分を見つけることと、世界で成し遂げることはまったく別の領域のことなのだ。
その領域を分けなければ、私たちのリアリティはいつまでも個人的エゴとマインドの支配下におかれ、世界とのつながりに縛られたまま色あせていく。
本当の自分を見つけたとしても、世界におけるひとつの経験という範疇に置かれ、色褪せて消え去るまで、都合よくマインドに利用され続けるだろう。
世界の領域から離れて、本当の自分のリアリティを理解すること、これは何かを世界で成し遂げることを超えたリアリティだ。個人的エゴやマインドはこのリアリティを解き放たなければならない。
世界を含めるすべての存在の原点がここに在る。そこが私たちの常時位置することろであり、個人的エゴやマインドが考えるような、ひとつの経験をいう範疇を超えて存在しているリアリティだ。
世界の現象から離れて、私たちが自分自身のこの内なるリアリティに目覚め、その理解が十分に定着した時、個人的エゴやマインドとの位置関係が逆転する。
本当の自分のリアリティが主となり、個人的エゴやマインドが本質から離れたひとつの経験になる。
だが、そう理解したあとも、人生を通して、私たちが世界で何かを成し遂げようとすることは起こり続ける。
それによって、個人的エゴやマインドが消え去るわけでも、活動を停止するわけでもない。だが、そこで何が起こっても、自分自身のリアリティは定まっていて変わらない。
これが人間として存在することの自然な姿だ。世界や個人的エゴ、マインドをも含んだ完全な成就はここに在る。
私たちが世界では何も成し遂げていないと感じていても、揺るぎない自分自身のリアリティがあれば、それはすでに成し遂げられている。