あるがままの自分とはリアリティのことだ。私たちはあるがままの自分自身を見つけるために、自分自身に付随しているものと、ほんとうの自分自身を見分ける作業を続けていく。
そして、最終的に何も付随するもののない純粋な自分自身に行き着く。そこには何も無い。何も無い景色がそこには広がっている。私たちはここには何も無いと何度も確認する。
大抵の場合、私たちは何も無いことを確認すると、そこから引き返す。求めるものはそこには何も無かったと結論づけるのだ。
それでも、そこには誰かがいた。確かに誰かがいた。余計なものが何も無いことで分かることがある。そこにいた誰かこそ私たち自身のリアリティだ。
だが、私たちは自分自身に付随するものに価値を置いてきたために、そこで自分自身が明らかにされても、それをすぐに理解することができない。
何も無いことは無価値であると結論付けるのに時間はかからない。私たちはあるがままの自分を見つけに行って、確かにそこにはあるがままの自分がいたのに、それを見つけ損なってマインドやこの世界に戻って来るのだ。
もしかすると、その何も無いところを気持ちのいい場所だとか無限の広がりを感じたと言うかもしれない。
だが、それは経験であり、あるがままの自分自身ではない。それをマインドは価値あることと言うかもしれない。それが経験である限り、この瞬間、すでにその価値は失われている。
その価値が失われていることに気づけば、マインドはやはりあの場所は価値のなかったところだったのだと思い込むだろう。
そして、世界の経験こそ私に価値を与えてくれるものだと信じて、世界の経験に自分自身の価値を求めることをまたはじめるのだ。
世界を経験することは間違いではない。それを決して否定はしない。それは楽しくてワクワクすることだ。だが、そこであるがままの自分を見つけることはできない。
そこで私たちは、また自分自身に付随するものを見つけては、自分自身を飾り立てるということを永遠に続けていく。
あるがままの自分自身はその飾りの中に埋もれていく。私たちがあの何も無い空間で見落としたのは、それを見ている自分自身だ。
それが私たち自身のリアリティだ。このリアリティを理解するために、私たちはそこに浸り続ける必要がある。
それは経験ではない。私たちがこのリアリティだと想い出すための手段だ。私たちがこのリアリティだと確信したとき、私たちはあるがままの自分自身を完全に理解する。そして、あるがままの自分以外ではいられなくなる。
あるがままのリアリティは個人の所有物ではない。そこは世界にもつながっている。世界のすべては、このリアリティを基盤として存在しているのだ。
私たちは個人を超えて、そこに同化する。私たちが自分に付随していた飾りを捨てて、何も無いあるがままの自分自身を理解したとき、私たちは世界自身になる。
私たちが必死に求めていた世界の経験の本質のすべてが、この瞬間、私たちそのものとなる。
あるがままの自分自身とは、何も付随しない純粋な意識そのものだ。それは世界の本質ともつながっている。世界も純粋な意識でできている。
そして、このことが世界を慈悲で満たしていく。これがあるがままの自分自身を理解した先に起こることだ。純粋な意識を理解しなければ、ほんとうの慈悲を理解することはできない。
私たちはあるがままの自分を理解したあとでさえ、世界では普通の人間として存在している。外見が変わるわけではない。内面で起こっていることは、自分自身で分かっていればいい。
あるがままとはそこで何もしないことだ。私たちは、ただ、あるがままの存在でいればいい。私たちは、だたリアリティとして世界とつながっている。
そうすることで、リアリティが世界を慈悲で満たしているのだと知ることになる。これが叡智と言われている理解だ。