2013年3月25日月曜日

神はどんなことがあっても動かない

リアリティには動きがない。動きがないことがリアリティの完全性を示している。もしリアリティが動いてしまえば、それは変化し、偏りが生じ、減衰していく存在になってしまうだろう。

もし神がいることを信じるなら、私たちは神に助けてほしいと願うことがあるかもしれない。もしかすると助けてくれる誰かがいるかもしれないが、究極的な神は絶対に動くことがない。

究極的な神とは絶対に動くことのないリアリティのことだ。私たちがどんなに乞い願っても、この神は一歩たりとも動くことはない。

神の存在を信じる人は、神に助けられると思っている。だが、どんなに神を信じても、この神は信じてくれている人のために特別なは計らいをすることはない。

神を信じている人は、信じれば神が救ってくれると思っている。だが、残念ながら神はそんなことはしない。

神が自分に何もしなければ、神への信仰心が足りないと思うかもしれない。だから、一生懸命に神を信じようとする。

どれだけたくさんの信仰があったとしても、神は助けることがないので、人は神に対して不信を持つようになる。

そして、神は存在しないという結論に達する。なぜなら、私がこれほど神に願っても、神は何も応えてくれないから。多分、神はそう言われても困惑するだろう。

もともと、何もしないのが神なのだ。神は何もしないことで世界の存在を保っている。神が動けば、世界は総崩れになる。そんなことは神にはできない。

だから、誰かが神などは存在しないと言われても、神はじっとしている。何を言われても、不動でいることで、神は私たちを救っているのだ。

神は私たちを含めたこの世界を存在させている根源的な力だ。神が動かないのは、すべての存在に対する慈悲のようなものだ。

この神は私たちひとりひとりの中にも存在している。私たちがここに存在できるのは、この神のリアリティのお陰なのだ。

そして、この瞬間も生きる自由を与えてくれている。神を信じないという宣言さえ自由だ。そんな宣言にさえリアリティが与えられている。神を信じないという言葉にも神が宿っているのだ。

私たちが神にできることがあるだろうか。それは、この神を理解することだ。

それは神の所業を認めると言うことではない。私たちの中に存在する神を知り、そしてその神が私たち自身だと知ることだ。

動きのない神が、私たちの中心に在り、私たち自身であることを如実に知ることだ。

私たちは神を信じるということではなく、神になるということを選択することができる。

それは宇宙を自在に動かす万能のパワーを手にすることではない。どんなことがあっても動かないというパワーだ。

それはつまらないパワーだと思うかもしれないが、この動かないリアリティは、宇宙はおろか、神や天使や悪魔にさえ行き渡っている。誰もそれを越えていくことはできない。

神はすべての存在に何を願うだろうか。何も願うことはない。神の不動は徹底している。

ただひとつ神が与えた可能性は、この神というリアリティを理解し、それそのものに融合することができるということだ。

神はそれを押し付けがましく人間の使命として与えているわけではない。ただ、その可能性にリアリティを与えたのだ。

私たちが食事を楽しむリアリティがあるように、神を知るリアリティも存在する。私が存在するリアリティが在る。見渡す限り、私たちの周りにはリアリティが在る。

目を向けるものすべてが神であり、目を向けられているものも神だ。神はどこにでも存在している。そして、そのリアリティは決して動くことはない。