遥か彼方に輝いている星も、足元に落ちている石ころも同じリアリティでできている。あらゆるものがリアリティでできていること、これがすべてが平等であると言われる所以だ。
この平等であるとは、平等にすることではない。すでに存在において平等なのだ。だが、この平等を簡単に知ることはできない。
すべてにおいて平等であること、それを見つけるためには、自分自身の根源的な存在を見つけなければならない。そうでなければ、ただ知識として平等を主張しているだけだ。
世界を一生懸命見つめても、平等を見つけることはできないのだ。世界を構成しているものは、それぞれに形や大きさ、性質といった違いがある。
いくらそこに平等を見つけようとしても、私たちはそんな平等でないものしか見えない。そんな目に見えているものをいくら平等にしようとしても無理がある。
自分自身の根源を見つめることは、そういった世界の見方を根本から変えていく。
自分自身の存在のリアリティを見つけることで、世界の存在がリアリティにおいて平等であることを理解するのだ。
自分自身がいったい何で創られているのかを知れば、私たちはすべての存在の完全な平等へとたどり着く。
完全な平等の理解とは、私たちがリアリティという素材で創られ、それだけでなく、宇宙のあらゆるものがリアリティによって創られているという真実だ。
このリアリティには、私たちが求めているものすべてが含まれている。このリアリティを理解出来れば、私たちはすべてを手にする。
私たちが世界に求めるものが何であれ、それは例外なくリアリティでできている。
私たちが求めている世界はデコボコしているように見えるが、それは均一なリアリティでできている。だが、世界はデコボコしていていいのだ。均一にならす必要はない。
世界がどれだけデコボコしていようとも、リアリティはリアリティとして変わることがない。
水をどんな形の容器に入れても、水であることに変わりないようなものだ。容器はそれぞれに違うが、すべての存在の中身には同じ水が入っている。
私たちはこのリアリティという視点から世界を見ることができる。この水の視点に立つ、そこの視点だけがすべて平等であるということを理解できる。
その視点では、世界はデコボコしていながらも、それでいて完全な平等に基づいていることが分かる。そして、世界は自分自身であり、自分自身は世界であるという理解がある。
これは信念とか、哲学とか、道徳ではない。すべてが平等であるという知識があっても、それは確信にはならない。
自分自身とはリアリティであるという理解を起こすことがはじまりだ。そして世界はリアリティであるという理解が起こり、自分自身とは世界であり、世界は自分自身であるという理解が起こる。
これがリアリティを通して、すべては平等であると理解することだ。