2013年6月16日日曜日

1. 瞑想で理解することはマインドの判断基準では推し量れない

瞑想で理解したことを何かの役に立たせようとしてはいけない。
それを役に立たせようとしているのはマインドだ。

マインドはいつもそれが「私」にとって価値あるものかを計算している。
役に立つものがマインドにとって価値あるものだ。

例えばお金は役に立つ。だから価値があると判断する。

瞑想での理解はこういったマインドの価値観を完全に無視している。

それは役に立たない。
マインドはその役に立たなさ加減にイラッとする。

だが、マインドはそれに魅せられてもいる。
自分の中に揺るぎない自分自身を見つけたい。

価値あるものを集めているマインドではあるが、
それが価値あるものかどうかに関わらず、
見てみたいという思いを捨てることができない。

マインドにとって瞑想での理解など役に立たない。

瞑想では揺るぎない自分自身を理解する。

だが、たとえ揺るぎない自分自身であって、いったいそれが何の役に立つのか。
自分の周りに事件が起こり、厄介事に巻き込まれて困惑する。

だが、揺るぎない自分自身はそこにそうあるだけで何の解決もしない。
結局、解決するのはマインドだ。

マインドは思うだろう「あんたは楽でいいな」。
揺るぎない自分自身など何の役にも立たない。
それがマインドにとっての現実だ。

だが、マインドはその何もしない自分自身がいて存在できる。


その存在がなければ、マインドは一瞬も存在できない。
揺るぎない自分自身はマインドの存在を支えている。
何かの思惑があってマインドを支えているわけではない。

そうあることが自然であるだけだ。
何の条件も見返りもなく、それはマインドを支えている。

マインドはいつもハズレくじを引いたような気分になる。
揺るぎない自分など、ただの役立たずに思える。

それでも揺るぎない自分自身はマインドの存在を支える。

「役立たず」、「無価値な存在」、「無意味なこと」、どんな悪態をつかれても、
それは決してマインドを見捨てない。ただ支え続ける。

揺るぎない自分自身、それが意識と呼ばれているものだ。
ほんとうの自分自身、空、純粋意識、存在、神と呼ばれているものだ。

マインドはいつかそれに出会う。
自分を否定してくれる、それに出会いたいと思っているからだ。

そのとき、いままで自分の判断した価値など全く無意味だったと知る。