瞑想は意識という全ての存在の根源を理解することだ。
私たちがこの意識を理解するためには、
心の中の考えを超えた繊細で深いところに辿り着く必要がある。
そこで初めて意識の座に腰を下ろして、
世界の全体像を眺めることができる。
それまでは様々な考えを積み重ねた言葉で意識を理解しようとしてきた。
考えというのは浅くて粗大なものだ。
そこからの理解は変化を避けられず間違いや誤解も多い。
そこでの議論はまとまらず、自分の根源に対する結論には至らない。
様々な個人の考えの信頼度の問題だけが取り上げられる。
意識への理解は議論されて決定されるものではない。
考えによって何でも理解できると思い込んでいるところに無理がある。
だが人間は考えることが好きだ。
考えることは面白い。
色々な問題があったとしても、
考えることを否定的に捕らえる必要はない。
考えることを否定的に捕らえる必要はない。
考えることは意識を理解する上でも役に立つことがある。
そこから意識への理解が始まることもある。
問題は考えという方法の限界を知っているかどうかだ。
意識は考えという領域を越えている。
それは考えとは全く別次元のことだ。
考えはまだ未確定であり、意識はリアルだ。
考えと意識は同列で扱われるものではない。
考えと意識は同列で扱われるものではない。
意識は考えのないところに存在している。
考えていない時、私たちは意識に直接触れている。
考えは意識から動きと共に立ち上ってくる。
その考えの背景にあるのが意識だ。
舞台がなければ役者が働けないように、
意識という背景がなければ、考えは浮かんでこない。
だがその考えの背景ははっきりと主張しないので分かりにくい。
そこに触れていることさえ分からず、
その価値さえ推し量ることが難しい。
だがこの意識が全ての中心であり、
全ての創造物の素材であり根源だ。
これ以上静かで、特色がなく、動きもなく、
それでいて全てに関係しているものは意識しかない。
静かであるから、すべての音の背景になれる。
特色がないから、あらゆるものの素材になれる。
動きがないから、あらゆる動きになれる。
あらゆるところにあるため、誰にでも信頼される。
もし私たちの根源である意識に音があり、
特色があり、動きがあり、偏りがあったのでは、
全ての存在を支えるという役割を果たすことはできない。
完全な沈黙が考えの最高の姿だ。
完全な静止が動きの最高の姿だ。
私たちは瞑想を通して心の中に自分自身を探し求め、
この意識まで遡る。
沈黙より黙ることはできないので、
それが最終的なところだ。
静止よりも止まることができないので、
それが最終的なところだ。
そこが意識という存在について、
言葉を超えてリアルに理解できるところだ。
この完全に静止した意識から、
私たちの考えは動き始める。
その最初の動きは神秘的だ。
それは神が起こしているとしか言い様がない。
その発生を探ろうとしてもよく分からない。
私たちはそれが神かどうかを知らなくても、
実際に言葉が心の中で動いている。
呼吸をして目をキョロキョロさせながら、
何かを考えている。
何をするにしても、その根源は意識だ。
その意識から私たちの動きが創り出されている。
究極の存在が神と呼ばれているのであれば、
動かない意識は神そのものだ。
その私たちの動きを司っているのが、
動いている意識である創造主だ。
意識から生まれた創造主の動きは意識同様に静かだ。
創造主自体には考えはない。
創造主は純粋な存在から生まれた純粋な動きだ。
創造主は宇宙の何処かに潜んでいるわけではない。
創造主は私たちの考えの中に同化している。
どんなものであれ全ての素材が意識であり、
宇宙の全てが意識でできている。
宇宙の全てが意識でできている。
宇宙が動く時、素材である神は動かず、
それは動く神である創造主に委ねられる。
それが考えという動きになっても、
それは意識であることに変わない。
それは意識であることに変わない。
さらに創造主が導いている考えという動きは、
私たち自身の考えと一体化している。
私たちの自由な考えは創造主の動きそのものだ。
その動きを「私が考えている」と思うかもしれない。
自分の自由な発想によって、
自分独自の言葉を表現していると感じるかもしれない。
だが人間の考えや言葉は、
最初に創造主の動きがあって現れることができる。
私たちの考えはあまりにも創造主とひとつになっているため、
自分の考えと創造主の区別がつかない。
私たちは創造主とひとつであることを知らなくても、
創造主と一緒に個人の人生や世界を動かしている。
その背景には究極の素材である意識という神がいて、
創造主のどんな動きにも何の影響も受けずに存在している。
まるで海が嵐で荒れ狂おうとも、穏やかな凪であろうとも、
それが海水であることに何の影響も受けないのと似ている。
荒れ狂う波も、凪の海面も、同じ海水だ。
この海水が意識だ。
この海水が意識だ。
そこに風が吹き、海水にうねりが生じる。
この動きがが創造主だ。
そこに起こる瞬間瞬間のうねりが色々な考えだ。
何処にでも意識が存在している。
その意識から創造主の動きが起こる。
その動きに私たちは言葉を乗せる。
意識という根源から見る動きの景色はこんな感じだ。
考えは人間が発するものであり、
それは創造主の動きに同化して起こっている。
私たちはこの考えが自分の中心だと思っている。
だがこの考えを中心に持ってくれば、
動きによるズレが生じて、中心を修正しなければならない。
動きがあれば、そこを中心として確定することはできない。
動きのない意識だけが中心を担うことができる。
そして究極の存在である意識だけが、
動きのないところにも、動きのあるところにも、
変わらずに存在できる万能さを持っている。
私たちが意識そのものになって、
その完全な静止の中心にいることができれば、
その完全な静止の中心にいることができれば、
視界はブレることなく、全てを見渡すことができる。