瞑想をすることがなくても、
自分が本当の自分自身でいることに変わりはない。
自分自身は自分自身であること以外でいることができない。
人はそれをあるがままの自分自身でいることだと信じている。
あるがままの自分でいること、
私はこのことがよく分からなかった。
怒ったり、泣いたり、悩んだり、落ち込んだりするのは自分自身だ。
プライドが高く、頑固で、間違いを認めない、それも自分自身だ。
そんな自分自身という意味で、あるがままの自分という言葉を使う。
それは確かにあるがままの自分だが、
そう思うことで、いったい何が変わるのだろうか。
苦悩する弱い自分自身を認めることや、
プライドが高くて偏屈になっている自分自身を認めることが、
それほど意味があることだろうか。
たしかに客観的にそう認めることは大切なことだ。
自分がどんな存在なのかを知ろうとすることは大事だ。
だが、そんなあるがままの自分を認めて許したとしても、
そこから先にどのような理解があるというのだろうか。
それをあるがままの自分という言葉で収めてしまうことは、
中途半端なその場しのぎの言い訳のようだ。
私はそんなあるがままに対して、釈然としない気持ちだった。
あるがままにという言葉、
私はそこにはもっと深い意味があるのではないかと思った。
実際には、苦悩したり、プライドの高い自分自身は自分自身ではない。
それは、個人的エゴであり、マインドであり、人の性質だ。
揺るぎない本当の自分自身であってこそ、
あるがままの自分ということができる。
それ以外の自分自身は、
本当の意味でのあるがままの自分ではない。
間違った自分自身をあるがままの自分と認めてしまえば、
それは自分自身を間違えて認めることになる。
だが、私は個人的エゴやマインド以外の自分自身を知らない。
悟りが起こる前は、それ以外の自分しか知らないので、
知っている自分自身にあるがままを適用するしかない。
どんな時でも、自分自身は自分自身だ。
そうでない時は一瞬もない。
だが、問題はそれ以外の自分自身を知らないというところにある。
本当の自分自身といえる存在を見つけなければならない。
本当の自分自身を見つけて初めて、
あるがままの自分という言葉を使うことができる。
本当の自分自身を見つける方法が瞑想だ。
瞑想によって自分自身を見つけたとき、悟りが訪れる。
本当の自分自身を見つけたなら、
これであるがままの自分自身でいられる。
だが、瞑想によって、あるがままの自分自身を見つけたが、
相変わらず泣いたり、笑ったり、落ち込んだりすることは起こる。
はたして、どちらが本当の自分自身なのだろうかと混乱する。
やはり泣いたり、笑ったり、落ち込んだりする自分を認めるほうが自然なのではないか、
それがあるがままの自分を認めるということでいいのではないかとも思う。
本当の自信自身は、どんな時でも何もせず沈黙を保っている。
それをあるがままの自分だと言い聞かせても、どこか釈然としない。
あるがままの自分は何故自分自身の問題を見過ごしているのか。
何故それに積極的に関わって、解決に取り組もうとしないのか。
それをあるがままの自分と認めたところで、
しっかりと手に中に収まらないようなもどかしい感じがする。
私は本当の自分自身もあるがままの自分ではないのかもしれないと疑った。
だが、あるがままの自分は、この本当の自分自身以外ではありえない。
何もしない自分自身だからこそ、自分自身でいられる。
静かにそこに在ることが自分として完全だ。
私はあるがままの自分を誤解していた。
何もすることなくそこにいるだけの自分自身、
それだからこそ、(個人的エゴは)泣いたり、笑ったり、落ち込んだりできる。
何もすることなくそこにいるだけの自分自身だから、
(本当の自分自身は)泣いたり、笑ったり、落ち込んだりすることはない。
本当の自分自身のあるがままでいることは、
全てを許容し、それでいてそれらに巻き込まれることなく存在している。
私はどんなに苦悩していようと、喜んでいようと、
そこに存在するだけの自分自身がいること、
それがあるがままの自分自身でいることだと確信した。
瞑想がそこへとつないでくれる。
本当の自分自身を理解するには、行ったり来たりかもしれないが、
そことのつながりがある限り、いずれ真実を知る時はやってくる。