諸行無常とは仏陀の教えだ。
世界は移り変わる。
それを無理に固定しようとすれば苦しみを生む。
だから、世界の動きに固執することなく生きよという教えだ。
諸行無常ということは分かる。
だが、私は今もその世界の流転の中で生きている。
その世界を無視することはできない。
ただ、全ては移り変わるものと考えたところで、
生きていることそのものは変わらない。
私は幸福や心地よさを求めるだろうし、
より質の高い人生を望むだろう。
それも諸行無常がなければ実現されない。
世界が移り変わるから、自分の望みも実現される。
だが、実現された望みは失われていく。
世界は移り変わる。
失われていくものを、失われないように引き止める。
どんなに努力しても、
それは川の流れを止められないように、
つかの間の満足を置き去りにして過ぎ去っていく。
そして、自分の望みを実現するためにまた頑張る。
それを執着というかもしれない。
だが、こうして頑張るから、人生は実り豊かになる。
何度も望みが実現できるのは諸行無常だからだ。
諸行無常とは物事への執着を止めよと説いているのだろうか。
それだけなら、頑張って求め続けることは虚しいことだと言われているようだ。
それでは人生を虚しいものと思わなければならない。
むしろ、諸行無常なのだから頑張れと受け取った方がいいように思える。
世界は止まることなく流転する。
それを知って頑張るのが美しい人間の姿だ。
だが、これが結論ではない。
私はもっと深いところにこの言葉の真意がある気がした。
世界の全ては移り変わる。
だが、移り変わらないものがある。
それが自分自身の核心だ。
その移り変わらないものを拠り所としなさい。
私はこれが諸行無常という言葉が示そうとしている真意のような気がする。
諸行無常は執着についてだけを諭しているのではなく、
そこから先の悟りに行き着くための段階だ。
諸行無常とは、悟りを目指すための理解のひとつだ。
世界で頑張ることだけに巻き込まれることがないように、
そこでの幸福は求めても求めても必ず失われる。
それはきりがないことと理解することだ。
この世界を越えて行けば、本当の自分に出会える。
本当の自分に出会うことが真理だ。
だから、移り変わる世界が全てだと思わず、
そこに執着しないようにする。
そして、瞑想で移り変わることのない自分自身を見つけることだ。
世界で移り変わらないものは自分自身しかない。
執着しないことで、本当の自分を見つける道が開けてくる。
そして、本当の自分自身を悟ったとき、
それは移り変わることのない存在としてそこに在るため、
世界への執着は自然となくなっている。
悟りは世界のどんなものより自分が望んだものでいることだ。
世界で一番のものを手に入れている。
だから、何の執着もなく世界で頑張って生きていける。
ブッダの言葉は全て悟りにつながっている。
そこに帰結しない言葉はない。
諸行無常とは単に世界の法則を示しているのではなく、
自分自身を悟るところまで見通した言葉だ。