私たちが眠りから覚めたとき、まだ眠っているとは思わない。
自分は目が覚めて起きていると思っている。
だが私たちはずっと眠ったままだ。
本当に目覚めるべき自分自身をあえて眠らせている。
そうしているのは私たちのマインドだ。
本当の自分自身を眠らせておいて、
マインドは人生を自分の手で切り開こうとしている。
そうして望む自分自身になることが、
マインドが人生で求めていることだ。
むしろそこに邪魔が入らないようにしている。
それは何故なのか。
もし本当の自分が目覚めてしまえば、
今までマインドがしてきた経験の価値が否定されてしまうと思っているからだ。
自分の築いてきた価値を崩さないようにするために、
本当の自分自身などは眠らせておいた方がいいと思っている。
自分の仕事を邪魔するものは眠らせておいた方がいい。
マインドは自分が主導権を持って人生を生きていきたい。
本当の自分自身は眠っているように見えるが、
実はいつでも目覚めている。
マインドは自分の支配権を維持するために、
目覚めている自分自身を見ないようにして、
その存在を否定し、排除し、無価値なものとして無視している。
一方でマインドはその自分自身に目覚めたいとも思っている。
だが自分の壁を壊されたくないという思いと葛藤している。
何故目覚めたいのか。
それは今までやってきたことが上手く機能していなからだ。
自分の経験に真実を探求しても、それはいつまでも見つからない。
自分の壁を経験で厚くすればするほど、
本当になりたい自分から遠ざかっているような気がする。
どんなに人生で満たされようとしても、
決して満たされない渇きがどこかにある。
この渇きを癒やすためには本当の自分自身に目覚めることが必要だ。
そうすれば私たちは完全に満たされる。
マインドは薄々そのことに気がついている。
目覚めている自分自身はじっとそれを見つめている。
どうするかの選択はマインドに託されている。
マインドが目覚めることを選択すれば、
その方向にマインドの意識が向いていく。
目覚めている自分自身を見つけて、
それと同化しようとする。
それと同化したときにマインドは目覚める。
目覚めている本当の自分自身に目覚める。
目覚めるとどうなるのか。
私たちの中心が目覚めた自分自身になる。
それでもマインドはそこにいるし、
人生で探しものをしながら生きていくだろう。
マインドが人生で何をするにしても、
すでに私たちは本当の自分自身で在ることで満たされている。
マインドは自分の経験で自分自身を満たそうとは思っていない。
だからマインドは自由になれる。
その自分自身の中心には自分自身という壁はない。
マインドは自分の築いた壁が壊れていくのを悲しげに見つめるかもしれない。
もしかするとその壁の崩壊に抵抗するかもしれない。
そういうこともあるだろう。
マインドの壁は経験の汗と涙が詰まっている。
それを無価値にしてしまうのは忍びない。
だが目覚めの過程では容赦なく壁の崩壊が起こる。
それはマインドにとって悲しいことかもしれないが、
同時にマインドが自由へと飛翔することでもある。
マインドは籠の中にいることで安心していた。
そこでできることをすればよかった。
籠の中はマインドの人生が詰まっている。
その籠の崩壊はマインドを自由にするが困惑もさせる。
籠が崩壊したあとは籠を元には戻せない。
マインドは広大な空間に投げ出される。
だがそこには目覚めた自分がいる。
それが今度のマインドの拠り所だ。
そこでは籠が拠り所ではなくなっている。
空間の全てが目覚めた自分自身であり、
そこの全ての場所でマインドは安心していられる。
そしてマインドは自分がその空間だとも知っている。
これがマインドが目覚めた姿だ。
マインドはいずれ目覚める。
既に目覚めている自分自身が誰よりも近くにいるからだ。
そこでマインドの危惧していたことは起こらないと知る。
自分自身を失ってしまうかもしれないこと。
自分が無感覚で無感情な空虚な存在になってしまうこと。
自分の培ってきた価値を失って呆然としてしまうこと。
そして目覚めによってマインドは知る。
自分自身が確かなもので、どんなときでもそれは変わらないこと。
感覚が自由になり、鮮やかになること。
全てとリアルにつながっていると知ること。
価値が有るか無いかという判断を超えて不動の価値となること。