どんなことをしていても、
全てのことは自分自身の真実に目覚めることにつながっている。
たとえ今やっていることが目覚めとは全く関係がないことだとしても、
その進む先にはそれが待っている。
私たちがすることは真実に目覚めることを意識しているかしていないかの違いしかない。
私たちに共通する真実とは自分自身とは純粋な存在だということだ。
存在というリアリティが私たちの本質だ。
思考や身体、見解や体験が自分なのではない。
自分自身の真実に目覚めることとは全く関係ないことをしていると思うだろう。
そしてそれらを自分自身だと信じ込んで、
思考や身体を使って、満たされるための見解や体験を求めていく。
だがそれらは変化し客観的だという点で自分自身ではない。
それらは私たちに備わった機能だ。
着ている服や持っている道具を自分だと勘違いしている。
それでもそこには自分自身がいつも存在している。
服を着ているのは自分であり、道具を使っているのも自分だ。
何をしていようと、自分自身を勘違いしていようと、
自分自身の真実から離れることはない。
自分自身はそう勘違いしている中でも目覚めている。
自分を勘違いしているためにそれに気がつかずにいるだけだ。
勘違いに埋没していれば、目覚めていることさえも知ろうとしない。
だが私たちは目覚めている。
私たちがこの目覚めから離れることはできない。
自分自身であることを止めることは誰もできない。
たとえ私たちが世界で自分の欲望を満たすために生きていたとしても、
自分自身がその中心で目覚めていることを消し去ることはできない。
私たちが求めているのは世界において自分とは誰なのかという答えだ。
その答えによって満たされたいと願っている。
私たちはこの答えを見つけるために、
結局は世界から自分自身に戻ってくる。
突き詰めていくと自分を満たしてくれるところはそこしかない。
そこで私たちは本当の自分自身を見つけて、
今まで真実だと思っていた勘違いから抜け出す。
私たちは自分自身に目覚めて、
自分が存在だということを知る。
そしてあらゆるものが存在だと理解する。
そこでは思考や身体、見解や体験さえも自分自身だ。
それらを排除する必要はない。
ただそれらによって自分自身を満たそうという思いが消えている。
どんな体験であっても自分自身の目覚めよりも満たされることはない。
私たちは自分自身で在ることで満たされたまま、
この人生をこの身体と思考によって生きていく。
これが人間として生きていくことの最終形態だ。
私たちは何をするかよりも誰としているかを知る必要がある。
全てが自分の真実につながっているため、
私たちはいつかこのことに気がつく。
どんなことを世界に求めていても、
結局は自分だというところに行き着く。
この自分というのは考え方の質や行為のあり方ではない。
そこを通り過ぎたもっと深いところに在る根源的な自分だ。
そう思い気づいた時、自分自身への目覚めはもうすぐそこに在る。
それはどんなものよりも私たちの近くに存在している。