私たちは世界の物事それぞれの性質を分析して、
その違いを見つけ出していく。
そうすることでそれらの物事の本質を見抜こうとする。
例えば1個のリンゴについて知ろうとするとき、
生物としての種類や生息地、その成分などを調べる。
さらに遺伝子を調べて、個別に分類していく。
そうしてそのリンゴの本質を特定しようとする。
私たちは世界の物たちについて細かく分析し分断していく。
そうしてその本質に基づいて物事を特定していくのだ。
リンゴはその分子をさらに原子の構成へと分析することができる。
そしてその原子はそれを構成している素粒子へと更に細かくできる。
だが、この素粒子の時点で、それがリンゴだとは特定できなくなる。
リンゴの本質を見極めようと細かく分析すればするほど、
リンゴからかけ離れていくのだ。
そして素粒子からそれを生成しているエネルギーになると、
世界のそれぞれの物事に境界が保てなくなり同一化していく。
この世界は空間に広がる素粒子やエネルギーの海のようだ。
果てしない空間に小さな粒子とその運動だけがある世界だ。
私たちが普段目にする景色もそこにはない。
苦しみも快楽も存在しない。
正しいことも間違ったこともない。
これが今現在の世界の真実なのだ。
宇宙には無数の素粒子とエネルギーでできている。
それらの始まりはたったひとつのエネルギーだ。
そのエネルギーは存在から生まれた。
存在というのは動かないエネルギーだ。
この存在を対象として認識することはできない。
それが認識されるのは、それが動いてエネルギーになった時だけだ。
なぜ存在が動いたのかは分からない。
それは永遠の謎だ。
それは知る必要のない謎だ。
私たちが知る必要があることは、
自分を形作っているものは存在であり、
それが全宇宙の共通素材だということだ。
私たちは自分に備わっている認識力を高めることで、
このことを理解することができる。
私たち人間が何者であるかを知るために分析していくと、
自分の中にあるこの存在に行き着く。
そしてこの存在は自分自身の素材であるだけでなく、
宇宙にあるすべての素材だと知る。
そして、そこには何の分断もないことを知る。
私たちがリンゴとバナナは違うものと認識する一方で、
それは共通の素材でできていて、どちらも同じものだと知るのだ。
世界にはさまざまな色彩に溢れたたくさんの姿形がある。
それらはそれらにはひとつひとつに個性がある。
決して同じものはないし、姿形さえも変化していく。
だがそれを支えている存在は不変だ。
すべてのものが存在によって支えられている。
だから私たちはそれを存在すると認識できるのだ。
仏陀はすべてが平等だと言ったが、その本意はここにある。
私たちが感じられる世界で平等を理解することはできない。
世界の物たちはそれぞれに個性があり違っているからだ。
違いがあれば、それに優劣をつけたり、好き嫌いが現れる。
そこには分断があり、この凸凹を均一にすることはできない。
一方で、それらの存在の繊細なところでは、
何の分断もなく、均一で、不変な状態が横たわっている。
仏陀の言葉はこのことを指し示している。
そして仏陀の言う悟りとは、直接このことを知ることだ。
自分がその存在だと知れば、世界のすべてが自分になる。
好きなものも嫌いなものも、幸せなことも最悪なことも、
天国も地獄も、すべて自分自身なのだ。
こう聞くと、自分の中で消化しきれないと思うかもしれない。
存在を理解していない認識ではそれは無理な話だ。
だが、自分自身が存在だと知ったときには、
無理やりこのことを信じるのではなく、
それが自然なことだと受け入れるだろう。