2015年6月10日水曜日
スピリット・ウェイカー:ヨガへの道 #09
静寂の中に溶けこむことは心地いい。
だが、心地よさを破壊してこそ真の静寂を知ることができる。
私たちは身体や心の心地よさを求めている。
心地よくなるための方法を探して、
その方法を実践して心地よさを楽しむ。
瞑想も私たちを心地いい状態にしてくれる方法のひとつだ。
実際に瞑想をしていると、
静かで落ち着いた状態の中で心地よさを感じることができる。
私たちは心地いい状態を求めているので、
瞑想する度にその状態を求める。
そして、その状態を体験したとき、
瞑想はいいことだと思うのだ。
だが、瞑想が心地よさを与えてくれるのは少しの時間だけだ。
瞑想が終われば、心地よさは消える。
そのため、私たちは何度も瞑想をする。
瞑想をして、その時だけの心地よさに浸る。
私たちが瞑想に心地よさを求めると、そこが瞑想の限界点になる。
瞑想はもっと潜在力があるのだが、心地よさで満足していれば、
その潜在力は眠ったままだ。
私たちは瞑想に一時的な心地よさを感じるだけで、
それ以上のものを望んでいない。
だが、私たちはたくさんの心地よさを求めている。
いつか瞑想の心地よさに飽きてくる。
そしてもっと心地よいものがあるはずだと他の何かを求めはじめる。
そこで瞑想の役目は終わってしまうかもしれない。
瞑想は何の潜在力も発揮せずに、手放される。
それは瞑想の力がなかったからではない。
私たちが瞑想に心地よさ以上のことを求めなかったからだ。
もし私たちが瞑想の心地よさを手放して、
もっと瞑想で深いところを感じようとするなら、
心地よさを超えて、静寂の中にある自分自身の中心そのものまで進める。
その中心は心地よさを失った場所ではない。
私たちが心地よさに留まることをやめて進んだそこは、
心地よさを遥かに凌ぐところだ。
その場所は心地よさなど取るに足らない小さなことにしてしまう。
そこでは心地よさの度合いが高いか低いかという比較はできない。
そんな比較を超えた別次元だ。
その中心は静寂しかない。その静寂が自分自身だ。
そこは体験や感覚の中心であり、そこには体験も感覚もない。
そこは心地よさを超えた、心地よさの中心であり、
静寂でいることしかできない自分自身なのだ。
瞑想はそこまで導いてくれる。
私たちが心地よさにとらわれて、そこから抜け出せなければ、
瞑想の導きもそこまでだ。
自分からその心地よさを捨て去って、はじめて瞑想はその先に進み出す。
そして心地よさを通過して、心地よさの中心に降り立ち、
静寂のその場所こそが自分自身の中心地だと知る。