2015年8月9日日曜日

スピリット・ウェイカー:ヨガへの道 #16



自分で在ることは考え方を選択することではない。
それは考え方を超えて、ひとつの中心地として不動で在り続けることだ。

私たちは考え方を探し求めている。
どんな考えで生きればいいかの答えが欲しいのだ。

より良い考え方、自分に合う考え方を手に入れることで、
自分という存在がはっきりとしてくると思っている。

そうして自分をはっきりさせれば、
生きることが確かなことに思えると信じている。

だが、考え方という答えには際限がない。
考え方は細分化されて、無限に多様化されている。

そのため、私たちが考え方を求めれば求めるほど、
自分というものが薄れていき、おぼろげになっていく。


私たちの記憶にはたくさんの考え方が詰め込まれ、
多様な考え方に支配されて、自分自身を見失っていくのだ。

自分を見失ったとき、私たちはもっと確かな考え方を求める。
自分自身が完全に納得できる考え方があるはずだと信じているのだ。

だが、その結末は同じだ。
考え方の中に自分自身はいない。

私たちは考えという多様性の中でさ迷い、
そこにいる限り、永遠に自分自身に出会うことはない。

それでも私たちは自分自身についての答えを求めている。
それだけが救いだ。

私たちは考えを求める中でひとつの中心に気付くことができる。
それは考えではない。

それは考えを見つめる者だ。
それは考えることのない知性のような存在だ。

それは考えの直ぐ側にいて、動くことなく静かにしている。
だが、私たちはこの知性を見つけることができない。

なぜなら、それは考えのように対象化されないからだ。
対象化されないため、それを見つけることができないのだ。

目で目を見ることができないように、
それでも目は存在しているように、それは存在している。

その知性はたったひとつだ。
すべての多様化された考えの中心にあって、
すべての考えを見る者であり、その発祥地でもある。

それは誰にとっても同じ知性であり、
動くことなくそこに在り続けている。

これが確かな自分自身だ。
これ以外に確かな自分自身は存在しない。

私たちが生きることの答えを知りたいのなら、
考えの前に、それを見つけなければならない。

もしそれを見つけても、
考えは起こり、考え方を選択することがある。

自分がひとつの知性として存在することを知ることは、
考えの存在を否定することではない。

考えは自分という知性から発生している。
それを否定することは、自分を否定することになる。

私たちが求めているのは自分という中心地なのだ。
その中心地を知って、それを自分として受け入れるとき、
私たちはすべてを肯定することができる。

私たちが排除しなければならないと思う考えさえ、
私たちはその存在を認めることになるだろう。

その中心は自分の中心であると同時に、世界の中心でも在る。
そこは個人という枠さえ超えている。

個人の中心地に気づくことは、同時に世界の中心に気付くことにつながる。
私たちは純粋な存在と同化して、自分自身が多様化された世界の発祥地だと知る。

これが統合(ヨガ)だ。
この統合によって、私たちは一個人でありながら、世界のすべてとして存在することを知る。

私たちが自分自身の中心地に気づいて、考えを基盤として生きることを止めたとき、
知性という存在として、すべてを受け入れて生きるようになる。

すべてを受け入れるとは、否定的なことに対して諦めることではない。
私たち個人は否定的なことに抵抗するだろう。

そういったすべての反応や対処も受け入れるということだ。
ただ、私たちの中心はそんな変化する反応の外側にあって、
どんな状況や思考にも影響をうけることがない。

それでいて、すべての状況や思考は自分の中心地から起こっている。
個人にとって良いことも悪いことも、すべて自分の中心地によって創られているのだ。

このことを完全に理解できるのは、自分という中心地に気づいた時だけだ。
そうでなければ、この状況を飲みんで受け入れることはできないだろう。

私たちが考えに支配されて、世界をさ迷うことから解放されるためには、
考えではない確かな自分自身の中心地を見つける他に方法はない。

これが生きるということの核心だ。

自分がこの核心で在るのであれば、
すべてが同じ核心を持つ存在として、生きることに輝いている姿を見ることになる。