人はカルマを解放したいと思う。
そのために瞑想をしたりする。
だが、カルマは存在しない。
存在しないものを解放することは出来ない。
カルマという言葉は「行為」という意味ですが、
実際には自分の持っているネガティブな運命を示す時に使われたりします。
カルマのことをそのように思っている人は、
もし自分に何か問題が起これば、それをカルマのせいにします。
誰も問題が起こることを望んでいるわけではないので、
もし自分のカルマに原因があるのなら、それを解放したいと願います。
私たちはカルマを解放するために瞑想をしたり、
心の持ち方を変えてみたり、思いやりのある行動をしたりします。
それはいい結果をもたらすかもしれませんが、
それでカルマが消えてなくなることはありません。
カルマに対してどれだけ対策を練っても、
トラブルが起こったり、病気になったり、仕事で失敗したりします。
そこで、私たちはもっとたくさん瞑想をしたり、もっと穏やかな心でいたり、
人に尽くすような生き方をしたりします。
それでもカルマは依然として自分の中に居座り続けて、
人生にダメージを与えるための機会を窺っています。
私たちがこのカルマを解放することは不可能なのでしょうか。
ある程度はカルマを減らすことはできるかもしれませんが、
それを完全に解放することはできません。
それは海の水をどこかに汲み出して、
カラにしようとしているようなことです。
頑張れば、多少は海の水は減るでしょうが、
それが大勢に影響がないことは明らかです。
それでは、私たちはカルマを完全に解放することを諦めて、
永遠にそれを背負って生きていかなければならないのでしょうか。
ひとつだけカルマを永遠に葬り去ることができる方法があります。
それは自分自身の中に「存在」を見つけることです。
「存在」というのは私たちが世界に存在できるための基盤のようなものです。
「存在」を見つけるけることは、
例えて言うなら、私たちの身体はほとんど水で出来ていますが、
水があるために身体が成り立っていると知ることに似ています。
私たちの成り立ちには「存在」が必要であり、
それは今この瞬間も私たちの中に存在しています。
でも、自分の身体が水だということをあまり考えないように、
通常、自分とは「存在」なのだと意識することはありません。
もし、瞑想することで、自分とは「存在」なのだと知ったなら、
その瞬間に私たちはカルマから完全に解放されます。
私たちが永遠に背負い続けなければならないと思っていたカルマが、
そこで影も形もなくなるのです。
その代わりに、カルマを背負っていると考えていた「私」もいなくなります。
「私」は「存在」に取って代わられたからです。
「存在」というのは、私たち自身だけでなく、あらゆるものの存在を成り立たせています。
つまりそれはカルマの存在さえ成り立たせています。
私たちが「存在」になったとき、
カルマを超越して、カルマを成り立たせていた「存在」と同一になります。
「存在」として存在しているとき、すべてが「存在」一色になります。
そこには「存在」以外の何も存在していません。
つまり「私」も「カルマ」もそこには存在していないのです。
私たちを構成している様々な原子のレベルで世界を見ることができれば、
そこは細かな原子の活動する海のような景色が広がっているでしょう。
そこには人間も動物も植物も建築物もありません。
どこにも境目がない、ひとつの広大な原子の海です。
存在もそれと同じです。
存在は原子よりももっと繊細なので、種類というものがありません。
原子にはまだ種類や性質といったものがありますが、
存在にはそういったものがなく、完全に均一です。
私たちは瞑想することで、実際にその「存在」になることができます。
その時、私たちはカルマから完全に解放されます。
すべてが「存在」なのですから、
もともとカルマなどなかったのだと分かります。
ただ、そう知ったとしても、私たちに人生にはいろいろな出来事が起こります。
落ち込むような出来事も起こります。
そんな状況になれば、カルマは解放などされていないと思うかもしれません。
もしそう思うなら、まだ自分自身が「存在」になりきっていません。
「存在」においては、すべてが世界に起こる単なる出来事です。
私たちはそれに意味付けをしてきました。
これは良いことであり、あれは悪いことだと。
そして、そこにカルマがあると信じてきました。
私たちはわざわざカルマをつくりだし、それを背負い込んで、
それを解放するために四苦八苦していたのです。
ただ、このことは世界の出来事に無関心になることや
無視して生きることが正しいと言っているわけではありません。
私たちは出来事に対して対処をします。
それがいい対処かどうかは分かりませんが、
今まで以上に、出来事に対して密接な関係を感じて、それに取り組みます。
なぜなら、すべてが「存在」だからです。
自分が「存在」であるなら、世界の出来事は自分なのです。
自分を無視したり、無関心でいることはできません。
ただ、それはカルマではなく対処になります。
その瞬間の反応であり、常にいまの対処を考え続けます。
終わったことは終わったことであり、今ことが今のことだと分かっています。
「存在」はいまの一瞬にしか存在できません。
自身が「存在」だと完全に理解したなら。
「存在」はすべてがこの一瞬にあるため、そこにカルマの付け入るスキはありません。
でも、自分が「存在」になったとき、
不思議な事に私たちはカルマを背負ってもいいとさえ思っています。
あれほどカルマを解放したいと思っていのに、
それを背負うことや思い悩まされることに抵抗がないのです。
自分が「存在」であるため、
「存在」でできているカルマが他の何かではなくなってしまいます。
カルマを背負って生きてもいいと思うことこそ、
私たちから本当にカルマが解放されたという証なのです。
