自分が意識であると理解するためには、そのことをマインドが学ばなければならない。自分自身の内面を探求して、マインドが自分自身への正しい理解を達成したいと願う意欲が必要になる。
最初、マインドは意識が自分にとってより良いものであることを信じている。それによって、人生が良くなること、人生の問題が解決されること、幸せな気分になること、人生の荒波に強くなること、どんな時でも落ち着いた気持ちでいられること、願望が思い通り叶うこと、そんなことが起こるのではないかと期待して意識への探求をはじめる。
だが、意識への探求を深めれば深めるほど、マインドの存在は薄くなっていく。徐々にマインドの存在は意識の中へと同化していく。
意識で在ることとは、それはただ単に意識であることだ。マインドが思い描いていたような意識との共存の姿はそこには存在しない。
マインドは自分自身をより良いものにしようとしたが、どうも意識とはそういうものでないことに気がつく。そこで慌ててマインドは意識から飛び出す。
より良いものにしようと思い描いていた様々なこと、それらをマインドは身につける計画だったが、そこには何もないのだ。
それどころか、意識はマインド自体の存在を消し去ろうとする。マインドは自分の存在をより豊かなものにしようとしていたはずが、そうでないことを知って愕然とする。
マインドは光り輝くマインドになりたかったのだ。そこでマインドは一計を案じて、意識のいいところだけを拝借して、それを着飾ろうとする。
だが、意識を着飾ることはできない。そこには何もないのだ。そんなことをすれば、マインドは言葉や感覚に踊らされた文字通り裸の王様になってしまうだろう。
いつかマインドは思う、私が消えれば万事解決だ、それが意識を理解するためには必要だ。意識はそのことを決して無理強いはしない。マインドが来るのをただひたすら待っている。
マインドが意を決して意識に同化することを選択し、意識の中に自ら沈んでいく。そして私たちはマインドに代わって意識を中心に持つ存在となる。正確には、意識を中心とする存在であることを認めるのだ。
マインドは真実のために自ら犠牲になる。そうしてマインドが消え去ると、自分自身の真実の姿がそこに現れる。そこでマインドは自分が意識であることを如実に知る。
マインドは意識の中に消え去っても、マインドとして存在している。だが、それは以前のマインドではない。意識を理解したマインドだ。
マインドはそこでも何かを願うかもしれない。それがマインドの仕事だからだ。だが、マインドは自分が意識であることをもう忘れることができない。マインドは意識によってまったく新しく生まれ変わってしまった。
マインドは人生を良くしたり、問題が解決されるように願うこともあるだろう。それでも、そこには意識が存在している。私自身が意識なのだ。その意識に願望と実現のすべてが存在している。