私たちの中心には何が在るのだろうか。私たちは誰もこのことを知らない。知っているのは、私たちの周りにあることだけだ。
私たちは自分自身が分からないので、自分の周りにあることをたくさん集めて、それで自分自身をつくろうとする。
でもそれは人形みたいなものだ。それがどんなに素晴らしい出来栄えでも、自分自身にはならない。
それが悪いと言うことではない。私たちは周りからたくさんのことを学んでいく。それは人間として大切なことだ。それはおろそかにしてはいけない。
だが、それを自分自身の中心にすることはどうしてもできないのだ。それを中心に据えようとすることが間違っている。
それは中心に置いておくための存在力がない。それは思うほど確かなものではない。
中心に置いておくものは、衰退したり消え去ったりしないだけの存在力が必要だ。どんな状況でも、問題が起きたり、苦難の中にあっても変わることのない確かなもの、それが中心に在るべきだ。
それはマインドの状態ではない。それはマインドが外のことから身を隠して、息を潜めて静寂をつくっているような、そんなものではない。
私たちにはすでに中心がある。その中心はリアリティに満ちている。それなのに私たちは周囲の経験やマインド状態にそれを置き換えようとしている。
私たちの中心に在るリアリティの価値に何にも気づいていない。たとえそれを知ったとしても、価値がないものとして無視し続けている。
無視する理由は、そこには何も無いからだ。何も無いから、そこを何かで埋めようとする。私たちの周りにあるもので、そこを埋めようとする。
この行為は理解できる。だが、何も無いと認識した時点で間違いが起こっている。そこにはほんとうに何も無いだろうか。
誰が何も無いと知ったのだろうか。何も無いところにも私たちのリアリティだけは存在していたはずだ。これが私たちの中心だ。
これが私たちの中心に在るリアリティだ。リアリティを探してはいけない。それは決して見つかることはない。
リアリティで在り続けることだ。そうすれば、自分の中心をほんとうに理解することができる。そこであるがままの自分自身を如実に知る。
私たちが自分の中心を理解することが出来れば、私たちはそこに周りからの何かで埋め合わせようとすることを止めるだろう。
その後にも、私たちの周りでは出来事が起こり、そして学ぶことがある。それのどこが問題だろうか。
私たちは問題にあたふたするかもしれない。だが、どんなことが起こっても、自分がリアリティであることは微塵も揺るがない。
私たちは自分が誰かを知っている。ただそれだけのことだ。人生は続いていく。どんな人生だろうと、私たちはそれを尊重するだろう。
なぜなら、それも自分自身のリアリティだと知っているからだ。