2013年6月30日日曜日

10. 瞑想で意識に覚醒するためにはマインドの存在が必要だ

マインドは瞑想でとても重要な役目を果たす。

マインドは瞑想中の邪魔な存在だったり、
それがいかにも悪いもののように思われがちだ。

マインドは敵であるとか消し去るべきものと言われたりもする。
マインドは本当にそんな存在なのだろうか。

マインドは心の中で色々な活動をしている。
考えたり感情的になったり感覚を分析したりする。

その活動自体はそれほど悪いことではない。
むしろ生活に役立つ優れた機能だ。

だが、思考が混乱したり感情の抑制が効かなくなったりすると、
マインドそのものが悪いかのような扱いを受ける。

マインドはいつでも自分の仕事をしているだけだ。
たまには思考が混乱することもあるだろうし感情も抑えられないときもある。

マインドはそれに勝る程の精度の高い仕事をたくさんしている。
機能が高い故にたまには暴走するくらいのことは起こる。

それだけを捉えて悪いと言われるのはマインドにとって心外だろう。
まるで不要物かのように扱われる。

マインドには主人がいる。
それは自分自身だ。

その自分自身が何処かに行ってしまった。
マインドが悪く言われるのはこのためだ。

自分自身はそこにいるのだが、主人としての自覚が全くない。
ただのマインドの付き人のようになっている。

この主人はマインドの良し悪しによって、
自分が決まると思い込んでいる。

マインドの主人はマインドがどうあろうとも微動だにしない存在だ。
マインドとその主人では立場がまったく違う。

自分自身はその権威を取り戻して主人に戻る必要があり、
マインドもそれを望んでいる。

マインドは良し悪しという制約から自由になって活動をしたい。
そのためには主人に主権を取り戻してもらわなければならない。

マインドはそんな情けない主人のために情報を集める。
自分の主人がもう一度自分自身に立ち返るためにはどうすればいいのかを探る。

そのマインドの献身的な導きによって主人は自分自身を取り戻す。

主人にこれが自分自身だという自覚が起こる。
その自覚はマインドの立場を超えて存在するようになる。

主人はそのとき自分自身として本当に自立する。

マインドが混乱して泣き叫ぼうが気持よく満たされていようが、
その主人は凛としてそこに存在している。
主人は不動の姿勢で静寂を保ち続ける。

主人がそうしていてくれればマインドは安心だ。
カルマだろうが運命だろうが恐れることはない。

マインドは自分自身という重荷から解放され、
マインド本来の仕事を続けられる。

主人を失ったままのマインドは哀れだ。
自分自身を失ったままの主人も哀れだ。

そこから脱するためにマインドが何かをしなければ、
自分自身は哀れな状態をいつまでも続けなければならない。

マインドは自分の主人を目覚めさせるための何かを探し求めた。
このマインドの献身を忘れてはならない。

このマインドの存在を忘れないことだ。

目覚めが自分にまだ起こっていないなら、
そこに導かれるためにマインドが必要だ。

自分自身への目覚めが起こったなら、
そこからマインドと自分自身の新たな関係が始まる。

マインドは主人の存在自体で創られている。
マインドの中身は自分自身そのものだ。

マインドは主人が自分自身として自立した時に、
その存在の純粋性が認められて輝きを放つ。

もう邪険にされる存在ではない。

その輝きは主人自体から放たれている。
主人は存在そのものが輝きだ。

主人が自分自身を取り戻してそれを理解するとき、
マインドはこの輝きを目にする。

マインドは瞑想によって自分自身という主人を探り当て、
マインドがその自分自身でもあるのだと自覚する。

そしてマインドはその主人自身で創られていることを知り、
マインドも自分自身もひとつの存在の輝きの中で、
今までのことを全てを理解する。