それだけを目指している。
「自分自身」とは光そのものだ。
瞑想でその光を見つけようとしている。
だが、それは光を見ることや、
光に反射するものを見つけることではない。
もし、何も無い真っ暗闇に光を放っても、
何もなければ暗闇のままだ。
だが、光源はそこに存在している。
「自分自身」を見つけるとはその光源を知ろうとすることだ。
それが感覚であり、感情であり、身体であり、その先に広がる世界だ。
それは光の反射物だ。
それがどんなものであれ、
対象として捉えられるものは光の反射物であり、
対象として捉えられるものは光の反射物であり、
光そのものである真の「自分自身」ではない。
だが、反射物は光によってリアリティが与えられている。
そのリアリティと「自分自身」は同質なので、
それを「自分自身」と認識してしまう。
そして思考や感情、感覚、そういったものと自分自身だと思い込む。
私たちはそれらと真の「自分自身」との区別をつけることができない。
光であるとはそういった反射光を認識することではなく、
光自身として在ると理解することだ。
光自身であると知ることは難しい。
光と同質である反射物にどうしても目が行ってしまう。
私たちはそうして光を求めれば求めるほど、
反射物を捉えて光そのものから遠くく離れていってしまう。
光源はどこにあるのか、その探求だけが光へと導いていく。
「自分自身」が光であるとき、
それは光と言うよりもひとつの存在として在る。
そこに存在するとき、光り輝く自分を見ることもなく、
光であると認識することもない。
光であると認識することもない。
だが、明らかにそれは光源として光を放っている。
その存在という光は、すべてにリアリティを与え、
世界を存在たらしめている。
どんなものもこの存在の光から離れることはできない。
この存在のリアリティがなければ世界は存在できない。
だから、ラマナ・マハリシは私が消えれば世界は消えると言った。
それは個人的な存在が死んだ時に世界が消え去るということではない。
もっと根源的な話だ。
「自分自身」とはそれほど影響力を持っている。
だが、「自分自身」は見つからなくても消えているわけではない。
いままでも、これからもそれは存在し続ける。
私たちは自分自身とはそんな「自分自身」だと理解することができる。
知識とか概念とかを超えて、その存在そのものであることを知る。
人間という存在の特殊性はそこにある。
そういうことを求めようとするのも、それを理解できるのも人間だけだ。
瞑想はその理解の可能性を切り開いていく。
「自分自身」を完全に理解したとき、瞑想は必要なくなる。
瞑想はそこに行き着くまでのガイドでしかない。
目的地にたどり着けば、もうガイドは必要ない。
光そのものに、いったい何の教えが必要だというのだろうか。
私たちが何かを信じたり、学び続けたりすることはそこで終わりを告げる。
ただ、光自身であることを知るだけで完全だ。
そこですべての使命は完遂される。
ただ、この身体もマインドも今までどおり光の反射物として存在するだろう。
感覚もあり、感情もあり、満たされることを求めるかもしれない。
それは世界の自然な流れとして起こり続ける。
光としてあることはそれを否定することではない。
光がリアリティーの根源である限り、
その反射物である世界も光のリアリティーの質を帯びている。
私たちは今までどおりの人間として生きていく。
だが、「自分自身」が光という存在のリアリティであることを知っている。
私たちは何かを知ったり、忘れたり、手に入れたり、捨て去ったりするだろう。
だが、「自分自身」は一瞬も変わることなく、そこにずっと存在し続ける。
人間はいつか死ぬ。だが、その「自分自身」が死ぬことはない。
その存在の光は途絶えることなく放たれ世界を照らし続ける。