瞑想は身の回りに良いことが起こるようにする方法ではない。
人生には良いことも悪いことも起こる。
悪いことが起こると困惑する。できれば起きて欲しくない。
多くの人を困らせる悪いことは存在する必要があるのだろうか。
すべて良いことばかりが起こればいいのではないか。
瞑想すれば、良いことばかりが起こるようになるかもしれない。
だが、良いことばかりが身の回りに起こるようになったら、
何でも自分の望み通りになるなら、結果として人は堕落していく。
きっと浮かれたり、もっと欲望を強めたり、
安穏としたり、世俗的な享楽に夢中になったりするだろう。
悪いことはその歯止めとして必要で、
そこに悪いことが起こるから人としてより良く在ろうという意識が起こる。
どんな悪いことでも、それはより良く在るために必要で、
人を正しい方向を向かせるための刺激のようなものだ。
それは両極端に陥らないように人生のバランスとして必要であり、
人として高い資質を発現させる役目を負っている。
そうであっても、
実際に悪いことが起こり続けるとうんざりする。
それが自分のためとはいえ、
現実に問題を抱えて頭を悩ませることは苦痛だ。
だが、悪いこともそう悪くはない経験だ。
悪いことを良いことに転換していくことは気持ちがいい。
そうして人間は挫折や絶望を超えて成長していく。
これが悪いことの意味なのかと納得できる。
だが、それが必ず良くなると信じていても、その繰り返しは際限がない。
神様はいつまで人間にこんな試練を与え続けるのだろうか。
悪いことはその人のマインドにとって都合の悪いことであって、
大きな目で見れば、それは善意に満ちた警告や指導だったりする。
それは何かを伝えようとしている。
それを単純に悪いことと片付けることはできない。
それには現実の問題に対処すること以上の意味がある。
悪いことが際限なく起こり続けると感じているなら、
それは伝えようとしていることを受け取ってないからだ。
悪いことが伝えようとしているのは何だろうか。
それは良いとか悪いとかの領域を超越せよということだ。
超越できる領域は何処にあるのだろうか。
それは自分自身の中にある。
自分自身の中にある本当の自分自身だ。
本当の自分自身という存在を悪いことは見せたい。
そこで善悪を超越することを知らしめたい。
世界がどうあろうと、社会がどうあろうと、
本当の自分自身は揺るがなく存在し生きていく。
本当の自分自身を知ったとしても、
自分の生き方は変わらないかもしれない。
何かを変えたいと思えばそれを変えようとするかもしれない。
あるいは何もしないかもしれない。
気ままにひとりで生きていくかもしれないし、
たくさんの責任を背負って生きていくかもしれない。
早死するかもしれないし、長寿かもしれない。
そうして人生では良いことも起こるし、悪いことも起こる。
だが、自分自身でいることだけは変わりがない。
この自分自身でいることは善でも悪でもない。
起こることの善悪に影響を受けることもない。
この絶対に変化しない自分自身の核心を知っていることだけが、
人生で起こる悪いことを超えて生きていくことを実現する。
善も悪も超えていることが本当の自分自身で在ることだ。
瞑想はそういう自分を見つける手段だ。
決して良いことばかりを身の回りに起こすための方法ではない。