サハジャマスター瞑想は自分自身に気がつくことを教えている。
自分自身に気がつくということは簡単そうだが難しい。
私たちは自分自身に気が付きたいというよりは、
世界に起こることに気が付きたいと思っている。
だからイメージや感覚、感情といったものに目が向いて、
どうしても気になってしまう。
だがその方向に自分自身はいない。
そこに目を向けている限り自分に気がつくことはない。
私たちが今までの習慣的な認識方法に囚われやすいところに難しさがある。
これは難しいことだが不可能ではない。
ただひとつのある方向を見続けることで道は開けてくる。
毎日丹念に正しい方向で瞑想を繰り返していくと、
ある日、自分自身がそこに居ることに気がつく。
それは神秘的な体験でも何でもない。
ごく当たり前の普通感覚の延長だ。
足元を見て大地の上に立っていると気がつくようなものだ。
何て当たり前のことを忘れていたのだろうと思う。
このことが悟りや啓発、意識の目覚めと呼ばれている。
大げさな言葉だが真実というものは至って普通だ。
だが悟りはそれで終わりではない。
悟りを悟りでなくしていく過程がその後に続く。
それを悟りと言っている限り、悟りと自分自身との間に分離がある。
悟りを自分と完全に融合させるために悟りを失う必要がある。
悟りを失うところに完全な悟りの成就がある。
これもまた難しい。
これを成就させるためにはマインドの働きが厄介な障害となる。
マインドが悪いというわけではない。
だがマインド本来の働きが方向を狂わせてしまう。
マインドは物事を分析し、概念化し、体験化するのが仕事だ。
この仕事が悟りを失うことに抵抗する。
悟りの自然な傾向は悟り自体を失わせる方向にある。
だがマインドはこの経験を保持しようとする。
ここで引いたり押したりのやり取りがある。
方向というのは大事だ。
この繰り返しで方向を失ってしまえば、
私たちは大海原を迷走する船のようにしてしまうかもしれない。
そして大抵の場合、マインドの力が強いために迷走する。
悟りが向かう方向には何も見えない。
それは失う方向にあるからだ。
マインドは何も見えないことに焦りだして違うのではないかと思う。
何も見えなければマインドは概念化できない。
そしてあちこちと概念探しを始めて大海原をあてもなく彷徨い続ける。
この時マインドは悟りから離れてしまって、
自分自身を知らない無知なマインドに戻ってしまっている。
悟りというのはごく普通のことだが、とても繊細なものだ。
見つけようとしなければ得られず、
それをつかもうとすると消えてしまう。
マインドにとって今まで経験したことがないような厄介事だ。
世界に溢れるお金とか健康とかの問題のほうがまだ分かりやすい。
この悟りの成就を諦めて現世の幸福を求めることに戻る人もいる。
それほどマインドの力は強い。
それはそれで仕方がないことだ。
あるサハジャマスター瞑想者は
何も見えないその方向に躊躇なく突き進む。
その瞑想で本当の自分自身を見つけ、
そこに留まらず更に突き進んでいく。
悟りをマインドの宝物ではなく、
自分自身の普通のことにしていく。
そして、ただその自分自身として生きていく。
ここまで辿り着いてサハジャマスター瞑想の役割は終わる。