瞑想で理解する「本当の自分自身」とは個人的な存在ではない。
本当の自分自身は魂だといわれることもある。
だが魂はまだ個人的だ。
「本当の自分自身」を意識と呼んでいる。
その意識は個人を超えたところにある。
それは個人の経験ではない。
この意識を理解するということは、
個人的な経験を超えて主体として在るということだ。
それは自分自身の魂を輝かしいものにするものではない。
徳が高く慈悲にあふれる人間になることでもない。
意識は認識できる対象ではない。
だから何ものでもない。
もしそれに何かしらの色を付けた途端に、
意識は意識でなくなる。
静寂、安らぎ、愛、慈悲、覚醒、悟り、神など、
マインドはそんな色を付けて意識を意識でなくしてしまう。
色が付けられれば、その反対の色も出現する。
静寂があれば騒々しさがあるようにだ。
意識は相対的な世界の物事になり下がり、
静寂と騒音という変化の中に置かれた認識対象になってしまう。
マインドはそうして自分が得たものを体験に落とし込み、
それが意識であったとしても、
相対的な世界に持ち込んで陳腐なものにしてしまう。
これが個人的存在の限界点だ。
個人の経験を捨てない限り、これ以上は進むことはできない。
私たちは本当の自分自身である意識を本当に理解するために、
どこかで個人を捨てなければならない。
個人を捨てることができれば、
宇宙の統一体である意識に辿り着くことができる。
そこでは私が悟りを得たということはありえない。
私が覚醒したということも目覚めたということもない。
それは誰の経験でもなく、ただ「存在している」だけだ。
それには相対的なそれのような価値はない。
マインドが関わる価値などがあれば、
それはたちどころに何かの色付けをされ貶められる。
それは価値がないところに価値がある。
それは何の意思も持たず、決して動くことがなく、
何のプランも持たず、もちろん世界を救おうなどとも思っていない。
だがそれが人間の中心であり世界の中心だ。
たくさんの色付けされた物を持つマインドが人間の中心なのではない。
人間の可能性の最高のことはこの中心に到達することだ。
個人というレベルを超えて、
そこで自分が完全な統一体であることを理解できる。
それはマインドの推し量る価値などというものは超えている。
意識をそのスケールでは計ることができない。
それを理解するためには、
個人というものを超えられるかどうかが鍵になる。
どうやって個人を越えていくのか。
それは自分自身が意識であるという絶え間ない認識によって可能になる。
それはそう簡単ではない。
だがそれを理解されなくとも、私たちは例外なく誰でも意識でできている。
その事実がいつか誰もがそれを理解することを約束している。
どんなことでもすべての道はここにつながっている。
理解するために時間をかけることは悪いことではない。
むしろ時間をかけて確実に個人という壁を越えて行くことだ。
そのために人間には人生という場所と時間が与えられている。