瞑想をすると少しだけ自分自身の内面を理解することができる。
瞑想の方向さえ間違わなければ、
誰でも簡単にそれを知ることができる。
それを知ったとき、
「これで分かった」と思うかもしれない。
「これで分かった」と思うかもしれない。
だがそれを知ったとしてもマインドはまだ自分の中心にあり、
自分自身の状況はそれ程変わっていない。
自分を理解したと思った後でも、
マインドの投げかけてくる問題に相変わらず頭を悩ませる。
マインドの投げかけてくる問題に相変わらず頭を悩ませる。
そうであれば自分自身を知ることなど何の役にも立たないと思う。
実際にそれは問題を解決するのに何の役にも立たない。
もしそれが何かの役に立つのであれば、それはマインドに引き戻されている。
マインドが内面の神秘的な体験を問題解決へと強引に重ねあわせている。
それはそこに居続ける。
だがマインドがそこに壁をつくる。
そこに壁があり、
自分自身への完璧な理解への道を阻んでいる。
マインドが自分の中心である限り、
それは自分自身を少しだけ理解しただけだ。
少し理解しただけでは、
まだ自分自身はマインドの支配下に在る。
まだ自分自身はマインドの支配下に在る。
マインドの存在は強力だ。
そのマインドの支配から逃れるためには、
その強大な壁を越えて行かなければならず、
それは簡単ではない。
多くの場合、少しだけ理解したその体験をマインドは宝物にする。
マインドは少しの理解が自分より強大になる前に潰しにかかる。
だからちょうどいい宝物としてそれをマインドの懐に収める。
もしマインドが問題解決にそれが役に立たないと判断したなら、
不必要なリサイクル品のように懐の宝物は放り出される。
理解は惨めな姿で無視され、煙たがられる存在に成り下がる。
そしてマインドは問題解決のためのより良い方策を新たに求め始める。
それは悪いことではない。むしろ常識的な当たり前のことだ。
だが問題解決と自分自身への理解を確信することは別問題だ。
自分自身への理解は役に立つかどうかという判断基準によって、
要不要を決めるものではない。
それはマインドに必要かどうかではなく、
そこで理解された自分自身は真実だということだ。
自分自身を少しだけ理解したとき、
こういうことが何度も起こる。
マインドの壁を乗り越えては何度も引き戻され、
その度にマインドはその理解を信じられるかどうかの疑惑に駆られる。
自分自身の存在の中心など無いのではないかと諦めかけ、
今まで通りのマインドが中心でいいではないかと妥協しかける。
ほとんどの場合、私たちは内面の精神的な経験で妥協する。
適当なところで止まって、そこから先に進むことを諦める。
これ以上進んでも何も得られないし、理解できないと決めつける。
そこには絶対に必要だと思われる何の確証も感じられない。
だがそれでも真実が完璧な理解へと進ませる。
マインドの壁は高くそびえていて、
何度も挑戦者を払い落としてきた。
だがそれは乗り越えられる壁だ。
何度も挑戦することで壁には足がかりができる。
繰り返される失敗は無駄ではない。
絶え間ない挑戦によってその壁を完全に超えられる。
その壁を克服した時、
私たちの中心はマインドに戻ることはなくなる。
その壁を克服した時、
私たちの中心はマインドに戻ることはなくなる。
私たちの中心は自分自身となり、
その真実は揺るぎないものになる。
もし私たちが瞑想の静寂や至福の中で自分自身を失っているなら、
マインドの投げかけてくる問題だけが人生だと思うなら、
いつまでたってもこの壁を超えることは出来ない。
私たちは誰でもいつかは死んでしまう。
死んでしまうと魂は月へと向かう。
そこには門番が居てこう質問される。
「お前は誰だ」
それに正しく答えられなければ、
魂は雨となってまた地上に戻される。
自分自身への完璧な理解だけが、
月の門を通ることができる唯一の方法だ。
魂はマインドの人生を何度でも繰り返していく。
それを完璧に知るまで果てしなく続いていく。
宇宙には時間がいくらでもあるので、
月の門番は何度でも人生を繰り返させるだろう。
もちろん月の門番を満足させるために、
私たちは自分自身を完璧に理解しようとしているわけではない。
それが自分という存在を完成させる最後の一片だ。
私たちは何であれ完成を目指している。
一番の完成は何か、それは自分自身の完成だ。
途中まで完璧に作っても作り続けなければ、
それはいつまでたっても完成品にはならない。
私たちは完璧に自分自身を理解し、
マインドの支配に戻ることなく、
人間として完成されることが可能だ。
瞑想はその道を照らし続けている。