すべての場所が清浄であるか不浄であるかに関わらず、
蓮の目を持つマスターたちは、
あらゆるところに清浄を見出すことを忘れてはならない。
(アチャラ バンダナ プージャより)
目は浄化のための強い力を持っている。
タイの山岳民族が作っているシルバーアクセサリーにも、
目をモチーフとした魔除けのブレスレットがある。
それは魔を見逃さないという意味だ。
いつでも目を見張り、注意力を保っている。
日本の不動明王も目を見開いて睨みを効かせている。
インドのヤントラにも蓮の真ん中に目がある図柄がある。
目の図柄は見る力を表し、
私たちはそこに神聖な存在を感じてきた。
私たちはそこに神聖な存在を感じてきた。
ある人はそれを神と呼んだかもしれない。
そこが自分の中心であり、宇宙の中心だと感じた。
その神聖な中心部だけが変化することなく永遠のままに存在できる場所だ。
そこは変化することがないので、
生まれたままの穢れのない姿のままだ。
私たち自身の中心部はこの目であって、それが変わったことはない。
ただ、自分自身がその目であることを忘れてしまっている。
私たちはその目であることに興味も持たずにいる。
そして不浄なものを見ては、
そうはなりたくないと思ったりする。
私たちは目に映る不浄なものを恐れている。
私たちの中心部から少し外れたところにあるのがマインドだ。
考えやイメージは中心部の近くに位置している。
だから、私たちはそれが自分だと思い込んでいる。
その自分を覆っているのが身体だ。
私たちはこの身体とも同化している。
それが世界と自分との境界線だと思っている。
私たちはマインドを通して常に外側の世界を見ている。
マインドは完全な中心ではないので変化する。
世界の状況によって、それはいろいろな姿に変化する。
私たちは自分が世界の状況によって変わる存在だと思っている。
だから世界を良くななければと思う。
世界を良くしなければ、自分も良くならないからだ。
世界を変えれば、自分も変わる。
自分が変われば、世界も変わる。
それは変わる者同士の終わりのないゲームのようだ。
変わるものを自分自身だと思いこむことで、
このような状況が生み出されている。
変化する外側しか見ることをしないので、
変わることのない本当の自分自身に気がつくことがない。
マインドが自分の中心だと思うことで、
自分自身は果てしない変化の中に埋もれ続ける。
自分自身は果てしない変化の中に埋もれ続ける。
マインドはそこより内側に自分が存在するなどとは思ってもいない。
だから瞑想で自分の内側を見る時にさえ、
マインドのその領域を超えることは難しい。
マインドは自分の内側にどんな考えやイメージを持っているかを見るだろう。
内側を見ることはマインドのそういった変化を観察することではない。
内側を見ることはマインドのそういった変化を観察することではない。
それは自分が変化することのない目そのものだと知ることだ。
その目であることは、
内側を何度も目を凝らして見ることでしか知ることができない。
目を凝らして、マインドの中に何かを見つけるのではない。
そこに目を凝らすことを見つける。
そこで自分が目で在ることを知る。
それを知った時、
私たちはマインドの変化を超えて本当の自分の中心を知る。
それが自分の中心だと知れば、もう二度と自分は変化しない。
マインドは変化するだろうが、自分は変化しないと知っている。
マインドは汚れるかもしれないが、自分が汚れることはない。
この自分の中心に在る目が蓮の目だ。
蓮の花は変化するだろうが、その目は変化することがない。
その目は神の目であり、自分自身の目だ。
その目は神のように清浄で、自分自身も同じように清浄だ。
清浄であるから、
何の判断もなくあるがままに見ることができる。
私たちはいつでもこの目であることを知ることができる。
マインドの考えを聞き、イメージを見ること、
身体の心地よさや痛みを感じること、
身体の心地よさや痛みを感じること、
それはいつでも自分の中心である目から見聞きした風景だった。
マインドの判断を通さずに、
清浄なその目で見れば、それら全てに清浄さを見る。
そこに存在するもの、その存在自体は清浄だ。
世界が絶対的に清浄であるとはそういうことだ。
マインドの判断の目で見た時、
それは清浄であったり、不浄であったりする。
それは清浄であったり、不浄であったりする。
それは悪いことではない。
だがそれはマインドの判断だと知っておく必要がある。
それを知らなければ、私たちはいつでも汚れを恐れ続ける。
いつまでも清浄であるように努力しなければならない。
蓮の中心の目である時、私たちは努力なく清浄でいられる。
私たちは美しく咲く蓮の花ではない。
その真中に位置している目であることを忘れてはならない。