2014年3月10日月曜日

31. 瞑想で自分自身を理解するためには過程があり、この過程通りに進むことで最終的な理解に到達する。

瞑想で自分自身を理解するには段階がある。

1.瞑想に興味を持つ

瞑想を始める動機は様々だ。

自分の心を落ち着かせたい、感情をコントロールしたい、
心身の健康を保ちたい、悟りを得たいなど。
どんな動機であれ、そこから瞑想が始まる。

これらの動機は自分自身をコントロールすることだ。
そしてその実現化を望む。

だがそれは別に瞑想でなくてもできることだ。
他にも方法がある。むしろ他の方法の方が効率的だったりする。

瞑想で期待するほどの結果が得られなければ他の方法を選択するだろう。
そして瞑想は止めてしまう。

ここで瞑想から外れてしまう人が大多数だ。

だが瞑想に縁がある人はその結果に関係なく無条件に瞑想を選択する。
そして瞑想を続けることで何かしらの変化が自分に起こり始める。


2.瞑想で変化を感じる

瞑想すると身体や心に変化が起こる。

それがどんな変化なのか、どのくらいで感じられるかは
人によって違いがある。

その変化とは身体がすっきりする、
疲れにくくなる、頭が冴える、洞察力がよく働く、
感情が安定してくる、ストレスに耐性ができるなどだ。

これらは瞑想の効果としてよく知られている。

この効果を実感すると、瞑想を続ける価値があると思う。
私たちは瞑想で自分自身をコントロールできていると思う。

この効果のために瞑想を続ける価値を見つける。


3.神秘的な体験をする

瞑想の効果を感じた後、あるいはその前に、
瞑想で神秘的な体験をすることがある。

意識の深いところで静寂を感じる、
目を閉じているのに眩しい光を感じる、
幸福感が高まる、何か神のような高貴な存在に触れている、
目にしたことがないような素晴らしい光景が現れるなどだ。

それはエネルギー的であったり、
イメージ的であったりする。

このような体験をすると、
その素晴らしさに瞑想の価値を感じる。

瞑想の理解は大抵ここまでだ。
神秘的な体験という世界が瞑想の行き止まりになる。

だが瞑想の持っている潜在力はこんなものではない。
この先に行くかどうかはその人の選択による。

この先に進むことに抵抗を感じる人もいる。

これ以上は自分自身の理解を越えていく世界だ。
自分の理解を越えるものには恐れを感じる。
だから安全にここまでで終わりにする人がほとんどだ。

人生において瞑想を選択する人は少なく、
瞑想をしていても、その真髄に触れようとする人はごく僅かだ。
そして本当にその真髄に触れられる人は更に少ない。

私たちはマインドが理解できるところは受け入れるが、
さらに自分自身を深く理解しようとはしない。

今の理解よりももっと前に進もうという意思がない限り、
この傾向は続いていく。

瞑想で感じる効果や神秘体験は世界のことだ。
それらは自分の周りに起こっていることで、
それを客観的に見ているに過ぎない。

それは自分自身でないにもかかわらず、
自分自身に取り込もうとする。

それが私たちの中の常識であり、
この習慣から離れることは自分自身の中で異端視される。


4.本当の自分自身に目覚める

本当の自分自身に目覚めるためには、
心地いい効果も神秘的な体験も捨てなければならない。

どんな感覚もイメージも脇に置いておく。
そこで何もせずに主体として居ることだ。

絶対に何もしてはならない。

そこでは眠るわけでもなく、意識を失ったり、
呆然としているわけでもない。
はっきりと意識を保っている。

このことは難しい。

意識がはっきりしていれば、
きっとマインドは動きたがる。

動きたがるマインドを抑えておくのは簡単ではない。

マインドは動くことが仕事であり、
じっとしていることは苦手だ。

動いて、観察したり、分析したり、考察するために動いていく。
そうして自分が主体としていることからズレていく。

このズレには気がつきにくい。
知らないうちに前の段階に戻っている。

いつの間にかそれを体験化し、体験を自分自身に取り込もうとしている。
捨てるはずのものを再び拾い始める。

このことは繰り返される。
だが繰り返されていい。

この繰り返しも本当の自分に目覚めていく過程だ。

雨が降って地が固まるように、
それは何度もそこに戻ることで確固たるものに成長していく。

自分自身で居ること、
このことの意味をそこからマインドは徐々に理解していく。

自分自身の核心がただの存在であること、
その存在によってマインドが創られていることを理解する。

マインドがそれを理解した時、本当の自分自身が目覚める。
そしてそれを否定する者は誰もいなくなっている。


5.すべてが存在であることを理解する

自分自身がただの存在であることを知った時、
「私は存在だ」と理解する。

これが自己覚醒だ。
悟りとか啓発と呼ばれていることだ。

だがそこで終わりではない。
そこにはまだ「私」というエゴが存在している。

最後の段階ではこの「私」を取り去っていく。
この段階は一番大変なところだ。

せっかく自分という中心を見つけたが、
今度はその自分という存在を捨て去っていくことになるからだ。

「私」を捨て去るのは抵抗がある。
自己覚醒は「私」のためにしてきたことだ。

その「私」を捨て去ることは今までの苦労を全て台無しにするように思える。

「私は存在だ」と知るだけでもいいのかもしれない。
そこまでではダメなのかと言われれば、それでもいいと言えるかもしれない。

覚醒や悟りというのは大抵そこまでだ。
それだけでも価値あることだ。

だが先があることは事実だ。

「私は存在だ」というところの「私」を消し去っていくと、
「存在」だけが残る。

「存在」とは「私」を含み、それでいて全てを含んでいる。
全てとは世界の全てだ。

世界は例外なく「存在」でできている。
だから世界は存在できる。

私たちが世界をリアルに感じることができるのは、
それが「存在」でできているからだ。

その存在は自分自身の根源でもある。

自分自身の根源を知ることで、
私たちは世界の根源をも知る。

「存在」は全てにリアリティを与えている全てに共通の素材だ。
それを知るためには自分自身の「存在」を知る過程が必要だった。

世界の中に直接それを見つけることは難しい。
それは世界を見る時、どうしても五感を使ってしまうからだ。

五感は「存在」を知覚することができない。

私たちが五感を閉じてただの感覚になる時、
初めて「存在」を感じることができる。

それができるのは自分自身の「存在」に於いてだけだ。

五感を閉じて自分自身の意識の中に焦点を当てた時にそれは現れる。
「私は存在だ」と知ることができる。

そこから純粋な「存在」を理解することができる。

その「存在」を理解した時、世界の全てとつながっている。
そこの位置に於いて、世界は文字通りひとつであることを知る。

今まで捨て去ってきたマインドや感覚や神秘的な体験も、
全てが「存在」であり、それを否定する必要がないことを知る。

マインドが排除しようとしてきた不幸や不快な出来事さえ、
「存在」でできている。

つまりそれをマインドがどう評価しようとも、
全ては自分自身でできているということだ。

「存在」であるとき、私たちの視点はそこになる。

世界の出来事やそれに対する感覚や反応をコントロールする必要はない。
マインドは世界に対して自由に反応すだろう。

だが自分自身は常に「存在」に位置していることを知っている。
これがどういうことかはこの位置に在って初めて知ることになる。

ここが私たちの絶対的な定位置であり、瞑想が導く最終的目的地だ。