2014年4月18日金曜日

12. 瞑想とマインド

マインドの存在は重要だ。
マインドを消し去ったり、排除しようとしてはいけない。

そうすれば悟りを得る可能性は永遠になくなる。
悟りへのカギを握っているのはマインドだ。

私はマインドをまるで敵のように思ってきたことがある。
瞑想中に思考が浮かんでくるとそれに巻き込まれ、
あとから巻き込まれたことにイライラしたりした。

考えないことがいい瞑想なのだと思ってきた。
思考が現れない瞑想はいい瞑想であって、
思考が止めどなく現れる瞑想はダメな瞑想だと判断した。


思考が現れない瞑想はいい瞑想に感じることも事実だ。
気分的に爽快な感覚があったり、心が落ち着いたりする。
それを否定はしない。

実際にはマインドがどんな思考をしていようと、
悟りであることが影響を受けることはない。

悟りを得るためには、マインドがそれを理解したいと思い、
実際にマインドがそれを理解したとき、悟りが得られる。

悟りを理解してくれるのがマインドだ。
マインドの知力が悟りへと現実のものとする。

だが、マインドは悟りばかりに意識を向けているわけではない。
日常のことや気になっている問題などに気を向けている。
瞑想中もそのことを考える。

マインドはとても高性能な機能を持っている。
体験をとらえ、それを分析し、問題点を見つけ、
解決法を導いていく。

マインドにとってはこの機能を発揮することが生きがいだ。

もし、瞑想でこの機能を止められたのなら、
マインドはフラストレーションを溜めてしまう。

全く何も考えないという状況を無理やりつくることは、
かえってマインドの反感を買うことになる。

そして、何よりも何も考えない状況は実際に何も生み出さない。

私が20年間瞑想をして、
何度も無思考の状態を味わってきたが、
それが直接悟りに結びつくことはなかった。

マインドへの抑制が外れれば、
瞑想中であろうと、再び賑やかに話し始める。

マインドの働きを止めて、無思考の状態になっただけでは、
まだ何かが不足している。

マインドに悟りへの仕事をさせる必要がある。
マインドの機能を停止させるのではなく、
その機能を悟りのために使う。

この機能が停止しているために、
無思考からは何も生まれてこない。

これはブッダの話からも裏付けできる。
ブッダは考えないという瞑想をして、実際に考えない瞑想ができた。
それだけでは飽きたらず、考えないということも考えない瞑想をして、
考えないことも考えない瞑想ができた。
だが、それで何も得るところはなかったと言っている。

ではどうすればいいだろうか。
瞑想ではマインド自身に焦点を当てさせる。

他の何かに焦点を当てるから、心の中で話が始まる。
その焦点を自分自身に当てる。

そうすることでマインドに仕事を与える。
マインドはその持ち前の性能の高さを発揮して、
そこに自分自身という悟りを見出す。

だが、話はそう簡単ではない。

マインドはあれこれと焦点を移すという性質がある。
自分自身に焦点を当て続けるということも、
その性質から簡単に維持できるものではない。

そこには忍耐が必要だ。
どこかに飛び出てしまった焦点をまた自分自身に移していく。

このことを繰り返していく。
そして、自分自身への興味が最優先になるまで、
ひたすら黙々と繰り返していく。

マインドは自分自身に焦点を当てることが、
自分自身の一番知りたいことにつながると気がつき、
それに強い興味を持ち始める。

本当の自分自身に惹きつけられ、
それを知りたいと思う。

そこまで来れば、かなり楽にはなる。

マインドは今までとは違う方向性を見つけ、
そこに戻る習慣を身につける。

そこでマインドは自分自身をはっきりと見つける。
悟りの瞬間が訪れる。

悟りが訪れても、マインドの考える機能は失われることはない。
だが、考えが自分だという認識は失われる。

考えないということも自分ではないと知っている。
それは単に機能を停止しただけで、
そこで悟りが得られるわけではない。

マインドは自由なことが本質だ。
その自由さを押し殺しては、最高の機能は発揮されない。

マインドの機能の高さをいかに正しい方向に向けるかが大事だ。
大事なのは、マインドが動いているか止まっているかではなく、
どの方向に向かっているかだ。

その方向が正しければ、
マインドの機能を殺すことなく、十分に機能を発揮させ、
マインドの最高の状態である悟りへと向かっていく。

マインドが自分は誰かという問題を提起し、
マインド自身がその答えを見つけること、
これが悟りだ。

マインドを抑圧したり、殺してしまっては、
永遠に悟りに到達することはできない。

そして、マインドは自分自身の中心を悟りに譲って、
心の中で自由に活動する。

悟りはそれで何の問題もない。
たとえ瞑想中に思考があっても、その中心だけは揺るがない。

私が悟りという中心点からマインドを見たとき、
それは愛おしいものだ。

マインドも自分自身でできている。
リアリティという存在があって、マインドも存在している。

その存在を壊そうとは思わない。
それが自分自身として自然であることだ。