マインドの存在は重要だ。
マインドを消し去ったり、排除しようとしてはいけない。
そうすれば悟りを得る可能性は永遠になくなる。
悟りへのカギを握っているのはマインドだ。
私はマインドをまるで敵のように思ってきたことがある。
瞑想中に思考が浮かんでくるとそれに巻き込まれ、
あとから巻き込まれたことにイライラしたりした。
考えないことがいい瞑想なのだと思ってきた。
思考が現れない瞑想はいい瞑想であって、
思考が止めどなく現れる瞑想はダメな瞑想だと判断した。
思考が現れない瞑想はいい瞑想に感じることも事実だ。
気分的に爽快な感覚があったり、心が落ち着いたりする。
それを否定はしない。
実際にはマインドがどんな思考をしていようと、
悟りであることが影響を受けることはない。
悟りを得るためには、マインドがそれを理解したいと思い、
実際にマインドがそれを理解したとき、悟りが得られる。
悟りを理解してくれるのがマインドだ。
マインドの知力が悟りへと現実のものとする。
だが、マインドは悟りばかりに意識を向けているわけではない。
日常のことや気になっている問題などに気を向けている。
瞑想中もそのことを考える。
マインドはとても高性能な機能を持っている。
体験をとらえ、それを分析し、問題点を見つけ、
解決法を導いていく。
マインドにとってはこの機能を発揮することが生きがいだ。
もし、瞑想でこの機能を止められたのなら、
マインドはフラストレーションを溜めてしまう。
全く何も考えないという状況を無理やりつくることは、
かえってマインドの反感を買うことになる。
そして、何よりも何も考えない状況は実際に何も生み出さない。
私が20年間瞑想をして、
何度も無思考の状態を味わってきたが、
それが直接悟りに結びつくことはなかった。
マインドへの抑制が外れれば、
瞑想中であろうと、再び賑やかに話し始める。
マインドの働きを止めて、無思考の状態になっただけでは、
まだ何かが不足している。
マインドに悟りへの仕事をさせる必要がある。
マインドの機能を停止させるのではなく、
その機能を悟りのために使う。
この機能が停止しているために、
無思考からは何も生まれてこない。
これはブッダの話からも裏付けできる。
ブッダは考えないという瞑想をして、実際に考えない瞑想ができた。
それだけでは飽きたらず、考えないということも考えない瞑想をして、
考えないことも考えない瞑想ができた。
だが、それで何も得るところはなかったと言っている。
ではどうすればいいだろうか。
瞑想ではマインド自身に焦点を当てさせる。
他の何かに焦点を当てるから、心の中で話が始まる。
その焦点を自分自身に当てる。
そうすることでマインドに仕事を与える。
マインドはその持ち前の性能の高さを発揮して、
そこに自分自身という悟りを見出す。
だが、話はそう簡単ではない。
マインドはあれこれと焦点を移すという性質がある。
自分自身に焦点を当て続けるということも、
その性質から簡単に維持できるものではない。
そこには忍耐が必要だ。
どこかに飛び出てしまった焦点をまた自分自身に移していく。
このことを繰り返していく。
そして、自分自身への興味が最優先になるまで、
ひたすら黙々と繰り返していく。
マインドは自分自身に焦点を当てることが、
自分自身の一番知りたいことにつながると気がつき、
それに強い興味を持ち始める。
本当の自分自身に惹きつけられ、
それを知りたいと思う。
そこまで来れば、かなり楽にはなる。
マインドは今までとは違う方向性を見つけ、
そこに戻る習慣を身につける。
そこでマインドは自分自身をはっきりと見つける。
悟りの瞬間が訪れる。
悟りが訪れても、マインドの考える機能は失われることはない。
だが、考えが自分だという認識は失われる。
考えないということも自分ではないと知っている。
それは単に機能を停止しただけで、
そこで悟りが得られるわけではない。
マインドは自由なことが本質だ。
その自由さを押し殺しては、最高の機能は発揮されない。
マインドの機能の高さをいかに正しい方向に向けるかが大事だ。
大事なのは、マインドが動いているか止まっているかではなく、
どの方向に向かっているかだ。
その方向が正しければ、
マインドの機能を殺すことなく、十分に機能を発揮させ、
マインドの最高の状態である悟りへと向かっていく。
マインドが自分は誰かという問題を提起し、
マインド自身がその答えを見つけること、
これが悟りだ。
マインドを抑圧したり、殺してしまっては、
永遠に悟りに到達することはできない。
そして、マインドは自分自身の中心を悟りに譲って、
心の中で自由に活動する。
悟りはそれで何の問題もない。
たとえ瞑想中に思考があっても、その中心だけは揺るがない。
私が悟りという中心点からマインドを見たとき、
それは愛おしいものだ。
マインドも自分自身でできている。
リアリティという存在があって、マインドも存在している。
その存在を壊そうとは思わない。
それが自分自身として自然であることだ。