自分自身の中に宇宙の起源がリアルに存在することは興味深い。
人でありながら、その中身は無限に広がるリアリティだ。
それは記憶ではない。
人類がバクテリアだった頃の記憶を辿っているわけではない。
それはこの瞬間も、自分の中に存在している。
それが自分自身の存在の中核となっている。
人の最も優れた潜在力とは、このことに気がつけることだ。
それが悟りだ。
宇宙創造の起源が自分自身だということは、
個人的エゴの理解の許容範囲を超えている。
神が宇宙の中で生まれたのなら、
悟りは神すらも超えている。
だが、悟りに対する個人的エゴの質問はこうだ。
「それが何の役に立つというのか」。
私はこの質問を何度も投げかけられた。
「自分が宇宙の起源だとして何が変わるのか」。
これは曖昧にできない大事な問い掛けだ。
この質問を無視してはいけない。
悟りということに酔っていると、
マインドのこの一言で目が覚める。
悟りに対する個人的エゴの殺し文句がこれだ。
「たしかに悟りは何も役にも立たない」。
悟ることで何かいいことがあるか。
実は何も変わっていない。
私は何も変わらないことを認めなくてはならない。
悟りを得たとしても、相変わらず身の回りには問題があり、
失敗して落ち込んだり、努力が空回りすることもある。
悟りが人生の役に立つかどうかと言われると、
そうとは言えない場面が多々ある。
その問い掛けに対して、
「悟りは役に立たない」と答えれば、
個人的エゴは勝ち誇ったようになるだろう。
だが、「役に立たない」ということだけが答えではない。
この質問には言葉で答えることができない。
正しい答えは沈黙だ。
実際に悟りというところでは、
人は人という範疇を超えて存在している。
人の本質は身体や思考を超えた存在だ。
だが、大抵の人は自分が純粋なリアリティだということを知らない。
それでも人であることに変わりはない。
人は自分が人間という範囲を超えた
純粋なリアリティだということを知ることができる。
人は宇宙の起源という存在でありながら、
人として生きることができる。
喜ぶときには喜び、悲しむときには悲しむ。
自分が個人的エゴのときには、それに自分が同化していた。
純粋なリアリティであるときには、そうでありながら、
純粋なリアリティであるところから離れることはない。
どちらでも見た目は変わらない。
だが、一方は個人を超えているところにいる。
個人的エゴは、悲しみを喜びに変えるかもしれない。
悟りは、悲しみを喜びに変えることができない。
個人的エゴは、それを見て悟りなど何の役にも立たないと見下すだろう。
それでも悟りは何もできない。
だが、喜びも悲しみも純粋なリアリティでできている。
すなわち、それらも自分自身だということだ。
悟りは何もする必要はない。
自分が本当の自分でいることを悟ること、
このことは、人として生きているならば、
いつか知ることになる。
すべての出来事はそこにつながっている。
すべての存在はそこに行き着くように向かっている。
たとえ今、そんなことは全く意識していないとしても、
どんな生き方をしていようと、その向こうには悟りがある。
自分が誰かを知らないで生きていくことはできない。
自分が誰かを間違って理解している時も、
いずれそれを正すときが来る。
それは、誰かに強制的にやらされるわけではなく、
自然に自分の中から湧き出てくる。
それを捕まえたとき、この流に入っていく。
私はその流れの中に入って、そして最後の悟りまで進んでいった。
私は自分が誰だかを明確に知っている。
それでも、私は普通の人として生きている。
言葉も話すし、食事をしなければおなかが減る。
決して聖人のような姿ではない。
身体が光り輝くことも、奇跡も起こせない。
失敗もするし、落ち込むこともある。
そうであっても、悟り自体は微動だにしない。
むしろ苦しんでいいし、カルマを背負うことに何の抵抗もない。
自分がどうあっても、
私は悟りであることから離れられない。
それはどんなときでも、
色褪せることなくリアリティに満ち溢れている。
それだけは否定することができない。
私は人間を超えた存在でありながら、
人間としての人生を生きている。
それで何の問題もない。
たとえ私の人生がどんな状況にあっても、
自分自身が悟りであることに何の影響も与えない。
そこでは、誰として生きるかとか、
どんな人生を送るかは問題ではない。
そうであれば、悟りが役に立つかどうかでさえ、
どうでもいい問題だ。
そんなマインドの鋭い質問に晒されても、
ただ自分自身でいることだ。
そこで黙って微笑むしかない。それが答えだ。
その質問さえ、自分自身のリアリティでできている。
いま、私はひとりの人間として生きている。
その中は、宇宙子超えた存在のリアリティに満ち溢れている。
