瞑想には沢山の種類がある。
どんな瞑想法でも瞑想はできる。
だが、すべての瞑想法が悟りに到達できるとは限らない。
その瞑想法の持つ方向性が間違っていれば、
いつまでも体験だけの瞑想を続けることになる。
そして、その瞑想体験は個人的エゴを強化する。
体験はすべて個人的エゴのためにある。
瞑想で何を体験したかは、
個人的エゴにとって自分の壁を築く材料だ。
個人的エゴが瞑想体験でその壁を強固なものにするなら、
そこに悟りの可能性はほとんどない。
私は瞑想の方向など知らなかった。
ただ、闇雲に瞑想をして、神秘的な体験をして、
それを元にして個人的エゴを強化していた。
まさかそれが個人的エゴを強化しているとは思わなかった。
私は瞑想体験の積み重ねがいつか悟りに導くと信じていた。
だが、それは結果的に悟りから遠のくことだった。
この個人的エゴの壁を打ち壊すのは困難だ。
すでに壁を強固にするシステムはできあがっている。
ここは難攻不落の要塞と言ってもいい。
ただ一点だけ弱点がある。
そこを突いていけば、いかに強固な要塞でも簡単に崩れ落ちる。
その一点に向かった瞑想こそ正しい瞑想だ。
そこだけが、強固な要塞にあって、唯一悟りへとつながる道だ。
私はその一点に向かって瞑想をした。
どれほど瞑想したとしても、
この小さな一点に照準を合わせた瞑想をしなければ、
瞑想本来の潜在力を引き出すことはできない。
その瞑想以外では、悟りに到達することはできない。
ただ、その一点はとても小さいので、
なかなか照準を合わせられず何度も失敗する。
失敗すれば、この瞑想には意味があるのかと疑うこともある。
だが、個人的エゴは最高の自分自身を目指しているので瞑想を続ける。
悟りを見つけて、自分自身の壁を完璧にしたいと思っている。
その欲求がこの瞑想を続けていく力となる。
そんな揺れ動く個人的エゴの思惑の中にありながら、
瞑想はひたすら小さな一点を打ち抜いていく。
悟りを手に入れるために個人的エゴはこの瞑想に打ち込む。
まるで金脈を見つけるために、ひたすら穴を掘っているようだ。
だが、それは金脈ではなく個人的エゴ自身の壁だ。
その一点で個人的エゴ自身の壁を崩している。
その小さな一点が、小さな穴として貫通するとき、
そこに向こう側に小さな光が見える。
これが悟りの瞬間だ。
そして個人的エゴの壁の内側に光が差し込む。
そこから真実が壁の中になだれ込む。
それは圧倒的な力で拡大し、
あっという間に個人的エゴの壁を内側から崩壊させる。
個人的エゴはそこで全てを失う。
そして、いままでの自分の全てを悟りが支配する。
まるでドラマのような展開だが、
これらは瞑想の中で起こることだ。
この展開を引き起こす小さな一点はビンドゥと呼ばれている。
瞑想する人はただ目を閉じてじっと座っている。
その目を閉じた心の中で、
自己の存在の根幹を揺るがすダイナミックなことが起こっている。
人生には時間がある。
静かに目を閉じて座る時間がある。
そうして自分自身を見つめる。
この瞑想を始めなければ、個人的エゴの要塞は強固なままだ。
瞑想を始めれば、個人的エゴの要塞に小さな傷が記される。
小さな傷かも知れないが、
それでも本当の自分自身に少しだけ近づく。
瞑想をする誰にとっても今日が一番の瞑想日和だ。
今日の瞑想が自分自身の真実につながっている。