世の中にはいろいろな瞑想法があり、
そこに求めるものも様々だ。
もし、瞑想の体験を求めたいなら、
それはそれでいいことであり、決して無駄にはならない。
だが、人には変化が必要だ。
そこにずっと居続ければ、その先に進みたいと思う。
その変化がいつ起こるかは分からない。
いずれ同じ体験で満足し続けることに疑問を持つようになる。
疑問を持つことは、とても大切なプロセスだ。
ここでその疑問は二つの道が与えられる。
疑問を押し殺して、今までの経験で満足しようとするか、
素直に疑問をさらけ出して、前に進むかだ。
たいてい疑問は押し殺される。
なぜなら、その答えが皆目検討がつかないからだ。
海に船を出して、その先に新しい陸地を見つけようとしても、
それがどの方向なのか分からなければ、結局港に戻ってくる。
あまり遠くに行くと、港にさえ戻れなくなる。
そのリスクを考えると、新しい陸地よりも安全な港にいることを選択するようになる。
そして疑問は考えてはいけないものとして忘れ去られる。
一方でこの疑問に挑む人もいる。
この挑戦者はさらに二つの運命のどちらかに落ちていく。
一つは疑問の答えをはっきりと得るという運命だ。
港を出た船は新しい陸地を見つける。
あらゆるリスクを退けて、船は目的を果たす。
それは簡単な航海ではなかった。
何度も難破しそうになったし、
何度も新しい陸地を見つけるのを諦めようと思った。
たったひとつの導きがその船を救った。
もう一つは、新しい陸地を見つけることなく彷徨うという運命だ。
海の姿は荒々しい時もあれば、心癒される姿を見せるときもある。
人はその海の姿に魅せられ、だんだんとそこを航海するということが目的になる。
新しい陸地のことは忘れ去られ、ただの海の旅人となる。
海の旅人は新しい陸地に関心がなくなり、それに近づくことさえ嫌悪する。
新しい陸地が見つかれば、海の旅が終わってしまうからだ。
そうであれば、どんな導きも旅人を救うことはない。
ほんの一握りの人だけが、そこに辿り着く。
私は大海原に船を出した。
悟りに取り組むことにした。
だが、誰も悟りについて知らない。
ときに魅惑的な瞑想体験が私を悟りから引き離そうとする。
導きというものはあるものだ。
ある本を読んで、その通りに瞑想をしてみた。
私の中で何かが変わっていった。
あとは直感で意識の中の道をたどっていった。
そして、あらゆる瞑想体験を捨てて、それを見ている自分になった。
そこに自分自身を見つけた。
それも瞑想体験なのではないかと、何度も壊そうとした。
それを否定し、排除し、消し去ろうとした。
だが、それは壊れなかった。
それは何の変化もなく、何からも影響も受けなかった。
悲しみに沈んでいようが、喜びに満ち溢れていようが、
体の痛みに耐えている時も、酔っ払ってハイになっている時も変わらない。
それは自分でいることなので、体験ではなかった。
体験とは自分と何かとの間で起こる。
それはただ自分でいるだけだった。
これが悟りだ。
悟りとはそうして自分が誰かを悟ることだ。
私は新しい陸地を発見し、そこに上陸した。