2014年4月9日水曜日

5. そして瞑想は悟りへ導かれた

世の中にはいろいろな瞑想法があり、
そこに求めるものも様々だ。
もし、瞑想の体験を求めたいなら、
それはそれでいいことであり、決して無駄にはならない。
だが、人には変化が必要だ。
そこにずっと居続ければ、その先に進みたいと思う。

その変化がいつ起こるかは分からない。
いずれ同じ体験で満足し続けることに疑問を持つようになる。
疑問を持つことは、とても大切なプロセスだ。
ここでその疑問は二つの道が与えられる。
疑問を押し殺して、今までの経験で満足しようとするか、
素直に疑問をさらけ出して、前に進むかだ。


たいてい疑問は押し殺される。
なぜなら、その答えが皆目検討がつかないからだ。
海に船を出して、その先に新しい陸地を見つけようとしても、
それがどの方向なのか分からなければ、結局港に戻ってくる。
あまり遠くに行くと、港にさえ戻れなくなる。
そのリスクを考えると、新しい陸地よりも安全な港にいることを選択するようになる。
そして疑問は考えてはいけないものとして忘れ去られる。

一方でこの疑問に挑む人もいる。
この挑戦者はさらに二つの運命のどちらかに落ちていく。
一つは疑問の答えをはっきりと得るという運命だ。
港を出た船は新しい陸地を見つける。
あらゆるリスクを退けて、船は目的を果たす。
それは簡単な航海ではなかった。
何度も難破しそうになったし、
何度も新しい陸地を見つけるのを諦めようと思った。
たったひとつの導きがその船を救った。

もう一つは、新しい陸地を見つけることなく彷徨うという運命だ。
海の姿は荒々しい時もあれば、心癒される姿を見せるときもある。
人はその海の姿に魅せられ、だんだんとそこを航海するということが目的になる。
新しい陸地のことは忘れ去られ、ただの海の旅人となる。
海の旅人は新しい陸地に関心がなくなり、それに近づくことさえ嫌悪する。
新しい陸地が見つかれば、海の旅が終わってしまうからだ。
そうであれば、どんな導きも旅人を救うことはない。

ほんの一握りの人だけが、そこに辿り着く。

私は大海原に船を出した。
悟りに取り組むことにした。
だが、誰も悟りについて知らない。
ときに魅惑的な瞑想体験が私を悟りから引き離そうとする。

導きというものはあるものだ。
ある本を読んで、その通りに瞑想をしてみた。
私の中で何かが変わっていった。
あとは直感で意識の中の道をたどっていった。
そして、あらゆる瞑想体験を捨てて、それを見ている自分になった。
そこに自分自身を見つけた。

それも瞑想体験なのではないかと、何度も壊そうとした。
それを否定し、排除し、消し去ろうとした。
だが、それは壊れなかった。
それは何の変化もなく、何からも影響も受けなかった。
悲しみに沈んでいようが、喜びに満ち溢れていようが、
体の痛みに耐えている時も、酔っ払ってハイになっている時も変わらない。

それは自分でいることなので、体験ではなかった。
体験とは自分と何かとの間で起こる。
それはただ自分でいるだけだった。

これが悟りだ。
悟りとはそうして自分が誰かを悟ることだ。
私は新しい陸地を発見し、そこに上陸した。