2014年4月10日木曜日

6. 悟りにも段階があった

その悟りを得ることが最終的なことではなかった。
私はそれが分かれば、すべて終わりだと思っていた。
だが、悟りはまだ明らかに不安定だった。
すぐにまた瞑想の体験に戻ろうとする。
瞑想の体験は魅惑的なので、私はそれに引きつけられる。
マインドがそれを何気なく悟りにすり替えようとする。

悟りを得たあとでも、瞑想体験はある。
感覚で感知できることにはリアリティがある。
悟りはそのリアリティあふれるビジョンに取り込まれる。
その魅惑的な体験が在ることを否定できない。


瞑想の感覚は、人生上の様々な体験にも落とし込まれる。
全てが上手くいくような、
何でもスムーズに展開していくような気がしてくる。
高揚感を伴う気持ちのいい体験が多くなってくる。
だが、それは悟りではない。

悟りというのは、どんな瞑想体験をしようと、
人生で何が起ころうと、全く関係なく存在している。
それに結びつけようとすることが、
悟り自体を否定しようとすることだ。
それに引き込まれれば、悟りはあっという間に失われる。

悟り自体が消えることはないが、
その悟りの存在が、経験を優先するマインドにとって都合悪くなり、覆いをかぶせる。
そうすれば、私は悟りの体験や人生の豊かさを満喫できる。
だが、悟りはただの経験になり、
現れたり失われたりする不安定なものになる。

悟りを安定させること、これが次の段階だ。

私は何度も悟りの瞑想体験に引き込まれ、
そこで悟りから離れたことに気づき、
また、素晴らしい経験を捨てて、自分自身に戻るということを何度も繰り返した。

これはそう繰り返すしかない。
そう簡単に悟りが安定するわけではない。
そこには努力と集中と忍耐が必要だ。

私の中で悟りから離れて、瞑想体験に引き込もうとするマインドとの激しい戦いがある。
目の前にある魅惑的な瞑想体験を振り切って、ただの自分自身でいることで耐え忍ぶ。
まるで、空腹でいるときに、目の前にご馳走があるのに食べてはダメだと言われているようだ。
何という理不尽なことなのかと何度も思った。
悟りとはそうまでして安定させなければならないのかとも思った。

マインドは正当な理由で悟りから自分自身を引き離そうとする。
それはとても巧妙だったりする。
私は何度もマインドの誘いに乗って失敗した。
悟りは素晴らしい体験であるべきというマインドの先入観に同調し、
何度もこれでいいかと妥協しようとした。

だが、本当の自分自身でいること以外に何か価値が有るものがあるかという思いが、
悟りから離れることを思い止まらせた。
悟りが安定したときにはどうなるのかという興味も強かった。

私はついに全てを振り払って、自分自身だけでいるという場所を確固たるものにした。
それは明らかに体験ではなく、決して消え去るものではなく、
どんな時でも変化することはない。
悟りが自分自身ではないと否定することは不可能なことになった。
それはとても小さな点であることだ。
その小さな点に至って、ついにマインドはこの状態を覆すことを諦めた。

自分自身という小さな点は何も持たない。
それは貧しさの頂点であり、純粋で何の色もついていない。
何かを持とうとせず、色を付けようとも思わない。
これが純粋な存在だ。
それが紛れも無く自分自身だということを知ることで、
悟りは不動のものとなる。

自分自身を悟ったときには、そこまで分からなかった。
ただ自分自身がそこに居ると知っただけだ。
このことは自分自身を理解する上で大きな飛躍となったが、
自分自身の真実を完全に理解したわけではなかった。
ただ知っただけでは、何度もマインドの体験の中に落ちていく。

私は悟りというところから、何度もマインドに惑わされ、
そこに居る忍耐を重ね、ついに完全な点としてそこに居ると知った。
私は何の動きもなく、ここに在るということを知っている。
そこからマインドのように動くことはない。

なんというリアリティだろうか。
私の悟りから曖昧なものが一切抜け落ちていった。
それは全ての体験や感覚を完全に越えるリアリティだ。
マスターたちが神と言っていたそのものがそこにある。

だが、この悟りも最終的なものではなかった。