悟りは決して動くことはない。
それを悟ったのはマインドだ。
マインドは動きから、その動きを止めて悟りを得た。
マインドからしてみれば、
止まる動きによって悟りを得たという感覚だ。
マインドは動きを止めるところに向かう動きに中にいる。
動きを止めて悟ったあとに、マインドはまた動き出す。
自分が完全に止まったことを知って、それが悟りだったと思う。
もうその時点で悟りから分離している。
マインドが悟りを確認しようとして動き始めてしまったからだ。
悟りの難しさはここにある。
動きのあるものが動きのないものに落ち着くことは難しい。
動きのないときには、それはマインドではなく、疑いようもなく悟りの状態だ。
だが、少しでも動けばマインドに変化する。
マインドが悟りで在り続けるためには、
活動と静止が同時に存在できるところを探さなければならない。
常識的に考えれば、それは矛盾していて不可能なことだ。
人はどちらかの状態でしかいられない。
悟りというものを諦めるか、妥協する理由がこれだ。
このことはかなり私を悩ませた。
答えを知ってはいるが、
それを自分自身の中で成立させることができない。
結論は、それは矛盾なく成立した。
この状態は矛盾を抱えていることから、
言葉で説明することは難しい。
言葉で説明しようとすると、
矛盾した表現になってしまう。
マインドの思考という動きが完全に止まって、
そこで自分自身の純粋なリアリティを感じ続けることで、
その矛盾は解かれる。
マインドの動きの中に、完全に静止した悟りが存在している。
マインドの動きは、悟りというリアリティでできている。
つまり、マインドの素材が悟りだということだ。
それらは個別のものとして在るわけではなく、
素材と形態という関係で共存している。
言葉での説明になるが、
水が海になろうと、川になろうと、雨になろうと、
その形態は様々でも、水であることに変わりはないのと同じだ。
水は水として、どんな形態になろうとも変化することがない。
変化することがないことが、静止していることだ。
海は海であると同時に水でもある。
そこにマインドがあろうが、感情があろうが、
悟りというリアリティは静止したまま存在している。
動きのある形態の素材として、それは変わりなく存在している。
しかも、それがどんな形態であっても、それに影響を受けることはない。
この理解がマインドと悟りがせめぎあうことなく存在できる点だ。
これを言葉ではなく、瞑想で理解しなければならない。
そのために、マインドの素材である悟りのリアリティに居続けるという過程が必要だ。
そこからマインドを理解することができれば、
マインドの存在を否定したり、排除する必要はなくなる。
マインドがどんなことを考えていようと、
自分自身はその内容に影響されることなく、
悟りそのものでいることができる。
悟りそのものでありながら、マインドそのものでもある。
悟りはマインドの考えが存在できるように支えとなっている。
たとえそれが、悟りなんてありえないし、意味が無いという考えであっても、
悟りはその考えが存在できるように支える。
これが無条件の愛と言われていることだ。
私の悟りはどんどん純粋性を増して、
マインドとの矛盾を克服することができた。
これで終わりだろうか。
もちろん、終わりではなかった。