個人の所有物であることから解放された悟りはどうなるのか。
悟りは個人という枠を取り外されて広がり始める。
悟りとは純粋な自分になることだ。
それは全ての行為や思考から切り離さていくことであり、
突き抜けた孤独であり、貧しさであり、何よりも小さいく無防備だ。
そうすることで悟りは純粋性を高め、
自分自身の核心に迫っていく。
最後に個人から離れた悟りは、
悟りという言葉にさえとらわれない。
この時点でのみ、悟りなど必要ないと言うことができる。
悟りに触れたことさえない個人的エゴが、
悟りになど必要ないと言っているのとは意味が違う。
悟りは自分の悟りという枠さえ超えて広がり、
もう何ものにもとらわれることはない。
それはただのリアリティだ。
リアリティには区別ということがない。
個人であるとき、その視点で区別が存在できた。
悟っているか、悟っていなかいも区別だ。
純粋性を増してリアリティに達したとき
それは区別することが不可能になる。
悟りは極限まで小さくなり、
あらゆるものとの関係性を遮断した。
この遮断は自分以外のものとの間に壁を築くことではなく、
結果的に壁を失うことだった。
世界や感覚から遮断された果てにあるのは、
世界や感覚との分かつことのできない融合だ。
微細の極致に至って、完全な統合が達成される。
それは存在するもの全てとの完全な融合だ。
それはリアリティというところでのみ起こる。
リアリティが全ての存在を支えていると理解する。
それは個人にとって都合のいいものばかりではない。
その融合には愛もあるし憎しみもある。
神もあれば、悪魔もある。
個人の都合に合わせて別け隔てすることなく、
リアリティは存在する全てのものに浸透している。
愛や神を創っているのがリアリティであるなら、
憎しみや悪魔を創っているのも間違いなくそれだ。
これがブッダの言っていた平等ということだ。
悟りの果てにあるのが、全てに均一に存在するリアリティだ。
このリアリティにおいては、区別することは不可能だ。
特別な選択もできないし、優先順位もない。
個人から見た都合のいい平等のそれとは違う。
この平等はリアリティの場所からしか見ることができない。
個人はそれを想像することができるかもしれない。
平等とはどういうことかを話すことができるかもしれない。
だが、それが個人の見地である限り、
平等の真実を本当に理解することはできない。
個人という枠をはずされた悟りを
個人的エゴがコントロールすることはできない。
リアリティは誰もコントロールすることができない。
その存在を退けることも、否定することもできない。
ここまで到達すると、
もう個人的エゴが自分の支配を取り戻すことは不可能だ。
そこにはリアリティしか存在していない。
そこで別け隔てすることが不可能であるなら、
全てとつながることを拒むこともできない。
もう個人的エゴの壁は失われている。
リアリティは宇宙の全てどころか、
宇宙の外側にも広がっている。
そこは宇宙を創りだした場所であり、
リアリティだけが満ち溢れている。
自分自身の中には、
今この時も宇宙が創造される前のこの状態が息づいている。
それが身体だろうが、個人的エゴだろうが、
宇宙の存在するものにならどんなものにもそれは融合している。
そうであるなら、何処を見てもそれはリアリティであり、
それ以外ではありえない。
自分はリアリティという存在であり、
それは宇宙を創造し、あらゆるものに偏在している。
自分という存在は個人的エゴが想像する以上の存在だ。
誰でもこのリアリティが自分だと悟ることができる。
私が個人的エゴという枠を捨て去ったとき、
こういった理解が押し寄せるようにやってきた。
理解とは誰かが語った言葉なのではない。
それをここでは言語化しているが、
実際には一瞬の洞察のような感覚で与えられた。