誰でも自分が自分自身でいることに疑いを持っていない。
自分自身でいることは当たり前のことだ。
自分自身でいることは当たり前だが、
その自分がどこにいるのかを確かめようとすると分からなくなる。
そこにいるはずの自分を見つけようとすると、
それが見つからず、途端に自分が誰だか分からなくなる。
それまでは自分が誰だか分かっていたはずだった。
自分とは名前を持った個人であり、
会社や学校に所属し、何かしらの能力があり、
そして現にここに生きていると実感している存在だ。
その自分なくして自分の人生は有り得なかった。
その自分をより良くすることが、
人生をより幸せにすることだと信じてきた。
だが、今その自分自身が見つからない。
確かにここに存在して生きているはずなのに、
それを確かめることができない。
自分とはどこか所属している存在なのか、
自分とはある能力を持っている存在なのかという疑問が起こる。
いままでは所属や権力、能力、見識といったものが自分だと思っていた。
そこにいるはずの自分というのもがはっきりしないので、
はっきりしているそれらを自分自身の代用品にしてきた。
その代用品を自分自身としてきたために、
自分自身の身の回りにもいろいろな誤解が生じた。
所属や階級が自分自身だと思ってきたために、
傲慢さや確執が生まれた。
能力が自分だと思ってきたために、
それで人としての優劣が決まると思ってきた。
見識が自分自身だと思ってきたために、
頑固さや猜疑心が生まれた。
だが、実際には所属も権力も能力や見識も自分自身ではない。
もちろん身体も思考も自分ではない。
それらは認識できることだから自分ではない。
客観的に感じ取れるものは全て自分ではない。
それらは自分自身のように振る舞ってはいるが、
ちゃんと観察すれば自分自身でないことが分かる。
ちゃんと観察しなければ、
自分自身の所属や能力が自分だと思い続ける。
それがごく自然に疑いなく感じられるものだからだ。
だが、それらは世界から与えられたものだ。
呆然とした半眠りの状態では自分自身をよく確かめることもなく、
世界から与えられたものを頑なに自分自身として信じ続ける。
そうして私たちは代用品の自分自身として、
それを守るために必死になって人生を生きていく。
私たちが自分だと思ってきた存在そのものが間違っている。
自分に目覚めるためには、それに気がつくことが必要だ。
世界から与えられた表面的な薄っぺらい自分ではなく、
もっと深くて確実で完全な存在を自分自身とすべきだと気付く必要がある。
そう気づいたとしても、
問題はこの完全な存在である自分自身が見つからないところにある。
完全な自分自身は見つけにくい。
いままでもこの自分自身を見つけようとした人は大勢いいた。
殆どの人は自分自身を見つけることに失敗してきた。
そして、そんな自分自身はいないとか、自分を見つけることは無意味だとか、
ある考え方を自分自身としようと無理やりこじつけたりしてきた。
僅かながら自分自身を見つけることに成功した人は、
それを言葉で表現しようとした。
だが、それはほとんど失敗した。
受け取り手が自分自身を知っていないと、
どんな言葉でも正確には伝わらない。
つまり、自分自身を知らない人に言葉を投げかけても、
その言葉の真意は理解されず、間違った解釈が一人歩きをすることになる。
そして、自分自身を見つける機会は失われていく。
私たちは自分自身の存在を見つけようと思い起こすだけでなく、
現実的に自分自身を見つけなければ、
その気づきは完全に無意味になってしまう。
自分自身を見つけることができなければ、
再び、代用品の自分自身だけが幅を利かせる世界に戻るしかない。
それを見つけられるのは確かな方向を持った瞑想だけだ。
その他はより良い代用品を探しているに過ぎない。
もし、幸運にも自分自身を見つけることに成功したなら、
本当にそれは自分自身だといえるものか、
偽りなく妥協することなく調べる必要がある。
自分自身を見つけたなら、
それを打ちのめし、崩壊させようとし、消し去ろうとする必要がある。
もし、打ちのめされ、崩壊し、消え去るものなら自分自身ではない。
それが打ちのめされることも崩壊することも消え去ることもなければ、
それが完全な自分自身だ。
その時、私たちは本当の自分自身を見つけたと、
自信を持って宣言することができる。
本当の自分自身とはあやふやな存在ではない。
それは確かに存在すると断定できるほどはっきりしている。
誰かの言葉を繰り返すのではなく。
静かに瞑想する中で、自らそれに気付く必要がある。
完全な自分自身は見つけにくが、確かに存在している。
それを見つけたとき、どこに所属していようが、
どんな能力があろうが、それらが高まったり劣ったりしようが、
完全な自分自身でいることに変わりはなくなる。
私たちはほんとうの自分自身でいると知っている存在として、
人生を生きるようになる。
これが目覚めて生きるということだ。