2015年1月5日月曜日

沈黙の中で神は語る:第十章(2)神

あなたは川岸にいて向こう岸を眺めている。
眺めながらどうしようかと考えている。
そんなとき、神はただ向こう岸にいるわけではない。

神は何処にでもいる。
大地を通して、あなたの足元でつながっている。
風を通して、同じ空気でつながっている。
意識の中で、何ものにも遮られずにつながっている。

あなたはいつでも神とともにあるので、
その川を渡れることは保証されている。
ただ人のマインドが根拠のない恐怖から止めてしまう。
もう少しで向こう岸に着くのに引き返してしまったり、
向こう岸に上がるのを躊躇したりする。

そうしてこちら岸に戻ってきた人は、
「神を見てきた」とか「神に触れてきた」と言う。
そしてまるで神を理解したかのように話をする。
だがその人は神になることを止めてしまった。
神になった人が神を人ごとのように言うことはない。

神を見ることや触れることはひとつの経験にすぎない。
それは終わったことであり、いまは失っていることだ。
それはリアリティのない想像に過ぎない。
だが、それが無駄というわけではない。
人はそこからもっと深く神を知ろうとするだろう。

神の経験が色褪せていくことは、
その人自体がよく分かっている。
神の話をすればするほど空虚になっていく。
その空虚さに耐えて、神の経験を大事にする人もいるだろう。

だがその空虚さに耐えられなくなれば、
神を確かめるために、もう一度あの川を渡ろうとする。
一度川に入った人はそれ自体への恐れは軽くなっている。
川岸は既に近くなっている。

神は時間を気にしない。
神には時間というものがないのだ。
だからあなたはじっくりと時間をかけて川岸で思案していてもいい。
何百年でも神の経験に浸っていてもいい。

あなたが満たされることを求める限り、
いつかこの川を渡り、向こう岸に足をつけることになる。
それはただ「いつなのか」の問題であるだけだ。
そこに赴くことは既に決められている。

あなたのマインドにとっては過酷な道に見えるかもしれない。
それでも最後に残るのはこの道しかないのだ。

冷たい川の水に足を着ければ、体温が奪われていくのを感じる。
川底に足を着ければ、そこにはまだ大地があって、
向こう岸につながっていると感じる。
この川底の感覚だけが頼りだ。
川を歩むほどに流れがきつくなり、バランスを失いそうになる。
危ないから戻ろうかと何度も考える。
道を間違えたかもしれないと思ったり、
選択を誤ったと感じるかもしれない。
顔を上げて見れば、さっきよりも向こう岸が近づいている。
心を決めて一歩一歩進んでいく。
川の中ほどまで来て振り返れば、いま来た岸が遠くに見える。
もし後戻りするなら今しかない。
突然、不安に襲われる。
まわりには誰も居ない。
誰も助けには来てくれない。
孤独と川の流れる音だけが時間を支配している。
だが足は川底を捉え、風は向こう岸の土の匂いを運んでくる。
神は今ここにいる。
あなたははいまひとりではなく、確かに神と共にいる。
そして向こう岸に足を着け、
あなたは神となり、
二度とこちら岸に戻ることはない。

あなたはこの過程を通っていく。
神の真実を知るために、神の経験を超えて、
マインド自身が直接神を理解する。

神を知らなければ生きる資格はないとか、
神が罰を与えるということはない。
神にとっては、あなたの存在自体が喜びなのだ。

たとえあなたが今の自分を不満に思っていても、
悩んだり、迷ったり、失敗したりするあなたさえ、
神の存在そのものだ。

だから神は神を知らなければならないと訴えることはない。
それをあなたに強制することはない。

だがあなたが神である限り、
いつかあの川を超えて、神へと戻る決心をするだろう。
あなたは神で出来ていて、その内側は神で満ち溢れている。
それをいつまでも無視することはできない。

あなたは自分が誰なのか気になり始めている。
それを知らなければならないと感じている。
だから神の言葉があなたに届くのだ。
意識の沈黙の中に神の言葉を聞くことができる。