誰でも心を持っている。
その心で思考し、喜んだり、悲しんだり、怒ったりする。
心はいつでも自分と一緒だ。
いつも自分と一緒なので、心が自分だと信じている。
心は自分だと信じてはいるが、
それはとても神秘的で、自分でも理解できないことがある。
心には不思議な性質がある。
心は私たちが知っている他のものと根本的に違う性質を持っている。
私たちの周りのものはとても固いものだ。
この身体は自分の身体として生まれてきて、
死ぬまでこの身体と付き合っていかなければならない。
途中で誰かと身体を交換したり、
新しい身体を手に入れたりすることはできない。
多少は身体の部位を変えることができても、
この身体とは一生の付き合いだ。
身体は柔軟性がなく、とても固定的なものだ。
この地球も固いものだ。
地球は別の天体になることができない。
この太陽系も、銀河系も、変化はしているが、
それとして固定化されて存在しなければならない。
喜んでいると思えば、悲しみに落ちていったり、
静かだと思えば、いきなり怒りで充満する。
私たちは心がそういう性質であることをよく知っている。
心は物質という縛りがないので瞬時に何にでもなれるのだ。
どんなことでも想像できるし、想像の中で自分は何にでもなれる。
身体や世界という固定的な存在に比べて、その心の柔軟さは驚くべきものだ。
人間は焼きあがる前のケーキのようだ。
外側はケーキになっているが、内側はまだ固まらずに溶けている。
溶けている部分はケーキになる前の材料の性質が残っている。
ケーキになった部分は変えられないが、
溶けている部分はまだ原材料の性質のままで、
それはケーキ以外のものになれる可能性を持っている。
焼きあがったケーキの部分は身体で、まだ溶けている部分が心だ。
自分は心だと思っているが、心には名前も形もない。
それでも心は自由に考えることができ、何でも想像することができる。
それは特定の何かに固定されることがない。
私たちは心の中の考えを自分だと思っているが、
それが自分であるとの確証は得られない。
私たちにとってその考えがどこから来たのかさえ理解不能だ。
いつもそこに考えがあるから自分だと思い込んでいるだけなのだ。
私たちはそんな柔軟性のある心をまるで身体のように固定的にしようとしている。
私たちは心を固定的にし、自分自身にしたいと思っている。
そうすることで心は身体のようになり柔軟性を失っていく。
柔軟性を失った心は自分という身体に縛り付けられ、
そこから身動きがとれなくなる。
まだ素材であるにもかかわらず、
それはケーキになることを決めつけられる。
私たちの身体は何かから作られている。
身体も元は何かの素材だったのだ。
その素材によって人間となり、名前を持つ個人となった。
私たちは身体が自分だと思い、
心を自分の考えだと感じているので、
その素材まで目を向けることがない。
自分という個人的な身体と心を形成して、
それと一緒に歩む人生が自分自身だと固定化する。
だが私たちは素材抜きで自分の存在を語ることはできない。
ケーキを小麦粉抜きで作ることはできないのと同じだ。
私たちが何で作られたかのつながりを持つのが心だ。
心はその素材とつながり、素材そのものを知ることができる唯一の手がかりだ。
心を通して自分自身の素材を知ることで、私たちは自分が誰なのかを知ることができる。
自分自身とは身体や思考ではなく、それを作っている素材なのだ。
私たちが固定された心を解放して、それを素材自身へと向けるとき、
その固定化された心の塊は緩んでいき、素材という自由に解放される。
そこで私たちは本来の自分自身とは何かを理解する。