2015年2月5日木曜日

冥空のリアル:04:誰かと戦うこと

私たちは誰かと戦っている。
平和主義者でさえ、平和を乱す者を憎んで戦っている。
私たちが誰かと戦うことは避けることのできないことだ。
戦うことの結果として勝利者と敗者が生まれる。
誰もが勝者になりたがる。
勝つことで勝者の心の中に平和が広がる。
誰もが負けることを望まない。
負けることで敗者の心は希望を失う。

だが勝者はいつもまでも勝者ではいられない。
またいつか戦いが起こり、そこで敗者にならないとも限らない。
敗者も勝者になることができる。
敗者はその戦いに希望を見つけようとする。
そうして戦いは繰り返し永遠に続いていく。
自分以外の誰かがいれば、そこに戦いが起こる。
自分以外の誰かがいる限り戦いは続くのだ。
たとえ死んだとしても、また生まれ変わって戦いに挑む。
誰かを打ち負かして勝利を永遠にするまで戦いは終わらない。

こうして戦うことは必要なことだ。
ただ、どのように誰と戦うのかの選択を見極める必要がある。

私たちは世界に存在している誰かを相手に戦っているが、
それは他者がいる限り、際限のない戦いが続くため永遠に平和は訪れない。
それは戦争やテロリズムといった命を懸けた戦いだけではない。
オークションで落札できるかどうかの戦いもある。
それは生命を脅かすものではないかもしれないが、戦いであることに変わりはない。
人間というのは事の大小にかかわらず戦うという本能を使っているということだ。

私たちは自分以外の誰かを敵にして戦うことを避けることができない。
だが私たちの戦いの本能を向けるべき本当の相手は自分自身の中にいる。
その敵を知って、それと戦うために、私たちは戦いの本能を持ち合わせているのだ。
その自分自身の中の敵というのは「思考が自分だという信念」だ。
自分自身は思考ではない。
だが、私たちは思考が自分自身だと信じ切っている。
この信念はとても強固で、それを崩すのは難しい。

例えば「私は平和を愛する人間だ」と思考したとする。
この思考は間違っていないし、そういう自分でありたいとは誰しも願うことだ。
ここには間違いが潜んでいる。
だがそれを間違いだと指摘したなら、逆に平和を乱す者として非難されるだろう。
ここでは平和を愛することを間違いだと言っているのではない。
その思考を自分自身だとしているところが間違いなのだ。
この思考内容と思考者が同一だとする信念こそが戦うべき相手だ。

もしこの思考内容と思考者を分けて見ることができなければ、
私たちはいつまでも自分自身を誤解して生きていくことになる。
私たちの戦う本能は、本来この誤解に立ち向かうためにある。
この誤解は歴史上、世界で一番の難敵かもしれない。
だから戦う本能の力を十分に発揮させなければならない。
だが「平和を愛する」という思考と自分とを分離できなければ、
私たちはその同一化を間違いだと正すことができず、
その思考をまるで大事な味方のように扱って戦うことをしないだろう。
そして、いつまでも世界に敵を探し続けるのだ。

「私は思考だ」という信念はそれほど見分けるのが難しい敵だ。
そしてそれを見つけ出して敵にしたとたんに、心の中で戦いが始まる。
敵である信念の攻撃は巧妙で効果的だ。
まるで味方のように言い寄ってきて、
戦いをやめて平和的にいこうと話を持ち掛けてくるだろう。
条件のいい取り引きを持ち掛けてくるだろうし、
今まで通りに味方でいれば問題ないではないかと語りかける。
私たちは何度もこの信念の前に膝を屈するだろう。
それに負けてしまえば、また世界に敵を探して、
私たちはそれを征服することに血道を上げるのだ。

そんな難敵を相手にする私たちに味方はいるだろうか。
私たちには強力な味方がいる。
それは存在意識だ。
存在意識は私たち人間の核心であり、それが本当の自分自身だ。
それは思考内容とは明らかに違う思考者と呼べる存在だ。
私たちはこの存在意識を味方にして戦うことができる。
だが、存在意識は何もしない。
それは何も語らず、何の武器も持たず、守護してくれるわけでもなく、
その存在自体を見ることができない。
私たちはこの存在意識という味方をどこまで信用していいか迷う。
もしかするとそんな味方などいないのではないかとさえ思う。
私たちが味方を見失い孤独な戦いに疲れれば、また敵に降伏するしかない。
そのときには降伏するほうが気が楽で正しいことだとさえ思う。
降伏すれば、私たちは自分自身の内面での戦いを放棄して、
またいつも通りに世界との終わりのない戦いへと繰り出す。

もし私たちがこの戦いの末に信念を破壊して、
自分自身が思考ではなく存在意識だと知ったなら、
世界のすべてが存在意識だと知る。
すべての物事が存在意識から創造されているのだ。
そこにはもはや敵は存在しない。
たとえ誰かから攻撃され傷つけられようが、
それも存在意識というひとつの全体性の中での出来事だ。
それは自分の中で起こり、自分の中で対立している。
まるで自分の親指と人差指が戦っているようなものだ。
そこでは自分とは身体全体だと知っている。
戦うべき相手は存在せず、
不協和音が起こっても、それは調和を取り戻すだけのことになる。

そのために存在意識は何をするだろうか。
存在意識は何もしない。
不動のままだ。
世界には存在意識しか存在しないので、
存在意識にとっては何かと戦うことも調和を取り戻すことも必要としない。
存在意識にとっては「相手」が存在しないのだ。
だから決して誰かとの対立は起こらない。
そう理解していても、信念がまだそこに残っていれば、
戦う相手をつくりだし、調和が乱れていると感じるのだ。

私たちが自分とは存在意識だと理解し始めていてもこういうことが起こる。
私たちは自分の居場所を信念と存在意識に置き、戦いの間そこを行き来する。
私たちが思考という信念に戻るとき、そこに分離を感じる。
私たちが存在意識に戻るとき、そこには何の分離もない。
その行き来が終わって、完全に存在意識を自分の拠り所とするとき、
私たちは戦いが本当に終わったと知るのだ。

私たちの真の戦いは自分自身の内面との戦いだ。
思考が自分だとする強い信念が本当の敵なのだ。
その戦いでは何度も迷い挫折する。
その信念を打ち倒し、自分は存在意識だと知るとき、
失うことのない完全な勝利がもたらされる。