本当の自分自身を見つけるために、
超えなければならない壁がある。
この壁を超えることができなければ、
本当の自分自身を悟ることはできない。
本当の自分自身を悟ったという人でさえ、
この壁を超えていない場合が多い。
その悟りが一時的な経験であるなら、
それはまだ超えるべき壁が残された状態の悟りだ。
その悟りで満足してしまえば、
自分自身の本質の輝きを見い出すことはなく、
やがてそれは過去の遺物になってしまうだろう。
本当の自分自身を悟るということはどういうことなのだろうか。
それは性格や考え方を変えることではなく、
人生上のやりがいを見つけることでもない。
だが、私たちはこうした姿形として観察できることを求める。
自分自身を悟るということは、
性格が穏やかになったり、心配が減っていったり、
人生でやることを見つけたりすることにしておきたいのだ。
それを姿形として理解できるものに変換しようとする。
実際にはそれは目に見える姿も触れることのできる形もない。
私たちはそのことを知っていたとしても、
何かしらの姿形にしないと落ち着かない。
そのため悟った状態の姿形を想像して、
それで自分自身を納得させようとする。
瞑想をして本当の自分自身を悟って、
人間として良い方向に変わったという物語はとても分かりやすい。
自分自身が変わったということで悟りを理解し、
そこに瞑想の効果があることも示すことができる。
だが私たちはそう悟ったとしても、
自分の性格や考え方を固定化することはできない。
悟った後にも私たちは性格に起因する問題を抱え、自分の考え方に疑問を持つ。
人生のやりがいさえも変わっていく。
そんな自分に気がつくと、
私たちはまだ本当の自分自身を知らなかったと感じる。
本当の自分自身とは揺るぎないものであり、
どんなものからも影響を受けず、時間を超えていつでも存在している。
そんな自分自身でいるはずが、簡単に変わってしまう自分になっている。
そうであるなら、実は自分自身を悟っていないと知ることになる。
本当の自分自身を悟ったと思ったことは何だったのだろうか。
そう自分に対する疑問が起これば、瞑想自体の効果も疑わしくなる。
そうなれば瞑想などしても何の効果もないと結論付けることになる。
瞑想することにも本当の自分自身を見つけることにも意味を感じられず、
私たちは瞑想を止めて、もっと自分自身を高めてくれるものを探すことになる。
もっと能力を高めたり、現実的な気持ちよさを求めたり、
健康で楽しく生きるにはどうしたらいいかに目を向けるのだ。
ここに本当の自分自身を理解することへの壁がある。
たとえ本当の自分自身を理解したとしても、
それを何らかの姿形に置き換えようとした時に、
本当の自分自身は失われる。
本当の自分自身を失わないためには、
そんな姿形への置き換えを止めなければならない。
純粋に自分自身でいることを極めていくのだ。
そのためには何も得なくていいという潔さが求められる。
だが、私たちはそれには不満だ。
本当の自分自身を悟ることで何らかの印が欲しいからだ。
本当の自分自身にそんな印はない。
瞑想で本当の自分自身を知ることは思ったほど難しいことではない。
だが、そうして知った本当の自分自身を純粋なままにしておくことが難しい。
私たちはそこで確かに最高のことを受け取る。
それを私たちが純粋なままで受け入れられるかどうかというところに壁がある。
この壁を超えて本当の自分自身を受け入れたなら、
それはどんなことにも揺るぎなく、影響されることもなく、
いつでもそこに存在する自分でいることが自然になる。
そしてそれがすべての姿形を超越していると知るのだ。
そこまで理解すれば、私たちが自分自身を失うことはない。
