私たちは何かをすれば、それに対する見返りを求める。
それは人に対してであったり、神仏に対してだったりする。
何の見返りも求めない人もいる。
見返りを求めないことは高貴なことだが、
それでも気持ちの上で何かしらの満足を得ている。
それが悪いことだというわけではない。
この世界でそうして取引をすることは自然なことだ。
ひとつだけ取り引きをしては行けない場所がある。
その場所は自分自身の心の奥にある。
心の中は様々な思考や感情が入り乱れている。
そこでいい考えをすれば満たされた気持ちになり、
悪い考えには喪失感や嫌悪感がつきまとう。
私たちは心の中でそんな取り引きをしている。
そのことが絶え間なく続いている。
私たちは心の中を心地いい世界にしたいために、
いい考えを持つように努力し、その見返りとして満たされようとする。
悪い考えは不快な結果が返されるので気をつけなければならない。
私たちは何がいい考えで、何が悪い考えなのかを判断し、選別していく。
時々、悪い考えがいい考えの中に紛れ込んで、悪い結果が返されて混乱したりする。
そのため私たちは何がいいことで、何が悪いことなのかの判断を重要視する。
そこは善悪を超えた場所であり、無条件にすべてを満たすところだ。
私たちにとって、こんないい話はない。
そこに行けば、善悪の判断を気にすることなく、誰でも満たされるのだ。
私たちは心の奥に行って、満たされようとする。
私たちはそこで気持よく満たされることを期待する。
だが、そこは取り引きをしてはいけない場所だ。
神聖な場所で、何かをする代わりに何かを得ようとすることは、
その場所を汚すことになる。
そこで取り引きをすれば、そこはいつもの心の中と変わらなくなる。
その場所で満たされようとしてはいけない。
心地いい世界を創ろうなどと思ってはいけない。
そこで私たちは何も求めるべきではない。
ただ、そこに静かにいることだけが唯一許されている。
そんなことを言われると、
私たちはそんな場所は役に立たないと思う。
自分の理想とする心のあり方とは違っている。
満たされるために、何かをするべきであり、
その結果をきちんと受け取るべきだと考え直す。
私たちは取引してでも、満たされることを求めるべきなのだ。
私たちはそこで取り引きをしてはいけないと言われると、
失望しながら、そう言って去っていく。
無条件で満たされるとか、そんないい話を信じた自分が愚かだったと思う。
それでも、その心の奥の神聖な場所はすべてを満たしている。
そこの静寂そのものが満たすことなのだ。
それは誰かを満たすのではなく、満たすことそのものだ。
もし私たちが善悪を判断する尺度をそこに持ち込めば、
その静寂の本質を見誤るだろう。
取り引きに慣れてしまった私たちの心は、
その場所を受け入れることができない。
私たちは善悪を超えるために、判断する心を捨てなければならない。
そこが満たされるかどうかという判断をしないで、ただそこにいることだ。
私たちがそこで取り引きを放棄すれば、何かを感じるだろう。
そこにいれば、満たすことを求めなくても、満たされること以外でいられなくなる。