私たちは人生でたくさんの物事を見る。
たくさんの物に触れ、音を聞き、香りを楽しみ、食べ物を味わう。
感覚を張り巡らして、どれだけたくさんの物事を感じても、
私たちはひとつのことにしか焦点を当てることしかできない。
そのため、たくさんの感覚の対象の間を忙しく飛び回っている。
私たちが人生でリアルに感じられるのはこの感覚の対象だ。
この感覚の対象に価値を感じている。
どの対象に焦点を当てるかが大切なことだと思っている。
私たちはそこで好き嫌い、快不快、善悪という印象をその対象に貼り付ける。
その区分けが人生の仕事であり、それがすべてになっている。
だが、焦点を当てられるのは感覚の対象だけではない。
焦点を当てるそのこと自体に3つのものが存在している。
3つがあって初めて対象がありえるのだが、それを理解している人は少ない。
私たちはその3つすべてに焦点を当てることができる。
対象があると分かることは焦点を当てることのひとつだ。
それはどのような物体があるのか、どのような動きをしているかと、
その対象を認識することだ。
もうひとつは感覚自体だ。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという五感だ。
もちろんそんな感覚があることは誰でも知っている。
だが、それらは感覚の対象に紛れてしまい、
それだけを純粋に感じることはない。
それは当たり前のことであり、頑張らなくてもそうあるものだ。
だから、私たちは感覚を無視している。
対象を見るのではなく、ただ見ることに焦点を合わせる。
見ている対象ではなく、見ていること自体に焦点を当てるのだ。
そうすることで無数にある感覚の対象は、5つの感覚に戻される。
この感覚があって、無数の対象は存在し得る。
そこに焦点を当てることで、私たちはそのことを理解する。
3つ目は感覚を感じている誰かだ。
見ることは誰かが見なくてはならない。
私たちは見ている本人を知らない。
それも当たり前のこととして見過ごされている。
私たちは見るという感覚を通して、
今度は見ている本人に焦点を当てることができる。
見ている本人は何人もいるわけではない。
それは一人だ。
ここで五感はひとつに集約される。
このひとりの見ている人がいるから無数の対象は成り立っていると理解する。
こうして私たちは世界の対象に焦点を当てるのではなく、
感覚自体に焦点を当て、そしてその感覚を感じているその人に焦点を移す。
その人に焦点が移ることは自己の目覚めと呼ばれている。
世界の何処を探しても自分自身は見つからない。
焦点をこのようにして引っ込めていくとき、自分自身に突き当たる。
そのひとりの自分自身に焦点が当てられるとき、
それが世界のすべてだと知る。
全世界を成り立たせている存在がそこにある。
そこに焦点が移れば、もう私たちは世界のすべての対象に焦点を当てる必要はない。
私たち自身が世界のすべてなのだ。
自分自身に焦点を当てることが、世界の対象に焦点を当てていることになる。
私たちは世界で何を探しているのだろうか。
何が足りないと思っているのだろうか。
それが何であれ、それはここにある。
それはここだけにしかない。
