神は何もせず、ただ存在している。
神は世界に自分を提供し、そこで創造された世界を許している。
私たちに最終的に起こることは神とひとつになることだ。
だが、私たちは神とひとつになろうとはしていない。
私たちは自分の人生で、自分の好きなことをしている。
それは楽しい時もあり、苦しい時もある。
そうして生きていくのが人生だと思っている。
私たちが人生で求めることは、世界で活動することだ。
そこで最高のことを手にしたいと願っている。
有り余る財産を持つこと、高い能力を持つこと、
たくさんの人間関係を築くこと、気楽に毎日を過ごすことなどだ。
広い世界ではあらゆることが可能になる。
世界の中で自分の求める最高のことが見つかれば、
私たちはとても満たされた気持ちになる。
満たされれば、
世界とは自分に幸福を与えてくれる素晴らしいことろだと思う。
世界中で満たされるものを探し続ける。
そうして活動し続けることが、満たされることにつながるのであり、
活動をやめた時、私たちは決して満たされることのない世界に陥ると恐れている。
そのため、私たちは活動をやめることができない。
瞑想して身体や心の活動が静まる時、
私たちは活動ではない自分自身をそこに見る。
私たちはは活動しなくても自分でいられる。
むしろ活動していない時の自分こそ、本当の自分だと感じる。
そこは自分と神とがひとつになるところだ。
私たちは世界で何かをしたいと思っているが、
そこの自分は何もしていない。
何もせずにそこにいるだけだ。
その時、私たちは神になっている。
神は何もしない。神には活動がない。
それは姿形がなく、誰も見ることはできない。
何の性質もなく、何の意図もない。
だが、それは世界の存在を支えている。
神はただ純粋な存在であるために、
世界のすべての素材になることができる。
世界の物事や性質、意図になることができる。
神は素材がどのように使われても、それを許可している。
それで悪魔が創られても何の抵抗もしない。
神は世界にその身体を投げ出し、
すべての素材となり、どこにでも存在している。
私たちが満たされるために探しまわっていたのは神だったのだ。
私たちが世界で探したものは、どんなものでも神でできていた。
それは自分自身だった。
私たちは世界の中で神とひとつになろうとしていた。
活動から離れて、神と同じように静まる時、それは起こる。
私たちが神とひとつになった時、
私たちが世界で活動したとしても、それは静かなままだ。
決して活動することはない。
私たちは神というところで、活動を見ている。
神というところで、活動自身になっている。
神というところで、求めるものは何もなく、
神というところで、満たされ続けている。
