人生には喜びも苦しみもある。
神はすべての喜びと苦しみの中に存在している。
神は喜びをもたらす存在ではない。
神は苦難の人生から人を救うことはない。
もし神にそれを期待しているなら、期待はずれになるだろう。
神は何もしないのだ。
神は何もしないからこそ神でいられる。
もし神が人を救ったり、罰したりするなら、
それは神ではなくなる。
沈黙と不動と存在こそが神だ。
だが、神が何もしないからといって、
私たちを見放しているわけではない。
見放しているどころか、神は黙って私たちを支えている。
私たちがここで生きていけるように、
宇宙のすべてに存在を与えているのだ。
そうであっても、私たちには喜びも苦しみもある。
私たちにとって喜びや悲しみの方が神よりも身近に感じる。
だが、その喜びも悲しみも神なのだ。
それを感じている私たちも神であり、
すべての人生の舞台が神でできている。
そんな神を役に立たないと言えるだろうか。
大事な時に救いの手を差し伸べなかったからといって、
神を責めることができるだろうか。
神がいなくても別に構わないと言えるだろうか。
私たちが神に対して何と思おうと、
神はそこに存在して、私たちを支えている。
神を信じないと宣言している人でさえ、
神は黙って神を愛する人と同様にその人を支える。
これが神の愛だ。
私たち人間の愛など足元にも及ばない。
私たちは愛を大切なことだと思っている。
それは大切なことだが、
それを人間が扱うことで、とても窮屈にしてしまっている。
私たちは誰かを愛するが、それには条件がつく。
条件に合う人だけを愛するのだ。
その愛は神から比べれば、かなり偏った愛だ。
もしすべての人を愛すると宣言しても、
それはとても無理はな話だ。
私たちはすべての人を支えてなどいけないのだ。
私たちが本当に愛や慈悲を大事にしたいのなら、
私たちは人間から神へと変容する必要がある。
そうすることで、神の愛を理解することができる。
神は私たちのすぐそばにいる。
その神を見つけて、ひとつになるのだ。
私たちが神とひとつになる時、それは個人を超えている。
それはもはや生命体でもなければ魂でもない。
それは誰も気が付かない無色透明な存在だ。
神は万能でもなければ、高貴でもない。
例えようがないほど何でもないのだ。
それでいて、すべてに行き渡っている。
すべてがこの無色透明の神でできている。
それが私たちの中心であり、素材となっている存在だ。
私たちがこの神とひとつになるとき、
存在という共通の素材を通して、すべてとつながる。
このつながりが愛だ。
私たちはただ愛であっても何もしない。
何もしないから、すべてを愛することができる。
神は私たちが神とひとつになることさえ望んでないだろう。
だが、私たちが求めるものはすべて神だ。
それがどんな姿形をしていても、すべて神でできているのだ。
だから、私たちは神から逃れることなどできない。
いつか私たちは無色透明な存在である神とひとつだということを理解することになる。
