花を見れば美しさと生命力を感じる。
だが存在がなければ、どんな花もそこに見ることができない。
私たちはその存在を無視している。
私たちは美しいものを美しいと感じることができる。
美しいものを見れば、心が癒やされる。
それが花ならば、私たちは花の色や輪郭に美しさを感じる。
そこに純粋な生命力を感じて、造形の素晴らしさに心惹かれる。
その美しさは一体どこから来るのだろうか。
世界には美しいものがたくさんある。
その美しさは何かを元にして生み出されている。
それは大地かもしれないし、風かもしれないし、光かもしれない。
その大地や風や光はどこから来るのだろうか。
その根源を辿り続ければ、神としか言いようのないものに行き着く。
美しさの根源は神だ。
その根源が神だとしても、
実際に私たちが見ているのは花の色や輪郭ばかりだ。
その造形の素晴らしさに神が宿っていると感じることもある。
だが、私たちは直接神を見ることはない。
美しさを見ても、そこに神の姿を目にすることはない。
美しさの根源であるその神とは何のだろうか。
それは純粋な存在そのものだ。
その存在があって、はじめて花はそこに存在できる。
私たちは花の色や輪郭を認めても、その存在を認めることはない。
存在は当たり前なことであって、当たり前のことは無視してしまうのだ。
その無視している存在がなければ、美しい花は存在できない。
私たちは表面的なことしか認めることができない。
だから物事を表面的な美しさや醜さで評価してしまう。
私たちが何をどう感じようとも、
美しさの根源である神は、存在しているすべてのものに宿っている。
私たち自身もそうだ。
私たちにも神が宿っている。
だが、それを無視している。
それを無視して、能力や姿形などで自分を評価している。
能力や姿形は大切なことだ。
だが、それらは表面的なことだ。
それが自分のすべてではない。
すべてでないどころか、それは自分自身のほんの僅かでしかない。
私たちは自分自身の根源に触れることで、美しさの根源を理解する。
美しさを支えている存在が自分なのだと知る。
そう知れば、私たちはすべてに存在を見る。
そこに存在そのものの美しさを感じる。
それは自分自身とつながっていることの美しさだ。
私たちが自分自身の根源となるとき、
根源を通じて、すべてが自分自身と無関係ではなくなる。
そこで感じるのは美しさや輝き、愛おしさだ。
それは表面的な美しさからではなく、
目には見えない存在とひとつであることから感じられる。
