2015年5月31日日曜日

スピリット・ウェイカー:ヨガへの道 #07



人生は過ぎ去ることで幻想になる。
だが、自分自身だけは幻想になることなく、
いつもリアリティが与えられている。

私たちは現実の世界を生きている。
だが、私たちが現実だと思っている世界は幻想だ。

すべてはこの瞬間に過ぎ去っていく。
過ぎ去ったものは二度と蘇ることがない。
次の瞬間にはすべてが新しくなっている。

私たちが目にしているものは、
それが脳に認識すされるまでの時間を考慮すれば過去の姿だ。
その世界を目にしたときにはすでに失われている。

そうは言っても、私たちはこの世界に生きている実感がある。
それが幻想だと言われても、現実に世界は存在していると感じる。

どちらを信じるかといえば、現実だと感じていることだろう。
それはあたりまえの選択だ。


世界が幻想だと言われて、それを信じる人はいない。
たとえ信じたとしても、それでどうなるものでもない。

感じている世界が変わるわけでもなく、
実感としてそこに喜びも苦しみもあるのだ。
それを否定することはできないし、
否定したとしても、それはただの逃避でしかない。

だが、確かに世界は過ぎ去ることで幻想になる。
現実に私たちが目にしているのは過去の世界だ。
そして過ぎ去った世界は二度と取り戻すことができない。

私たちにとっての現実とは何なのだろうか。
私たちには現実がある。世界にも現実がある。

私たちの現実とは自分がここに存在するということだ。
それは世界でも、身体でも、思考でもない。
その根源である存在が現実だ。

その根源がこの身体や思考、世界を作っている。
そして私たちはその根源である存在を認識することができる。

それは世界を認識することとは違う。
瞑想によって対象ではない主体を認識するのだ。

そこがすべてを統一する場所であり、
過ぎ去ることなく存在している。

それは過ぎ去ることがないので、
いつでもこの瞬間の現実として、私たちはそれを認識できる。

私たちが瞑想をする最終的な目的はこの存在を知ることだ。
この存在を知ったとき、私たちは世界の現実をも知る。

世界の見た目は過ぎ去っていくが、
その世界を作っている存在だけは変わらないと知る。

対象として認識できるものは幻想だ。
だが、その存在は現実であり、すべての対象を作っている。

すべての対象が私たちの根源と共通なのだ。
すべてが私たちと同じリアリティを与えられている。

つまり、すべての対象は自分自身なのだ。
これが世界の幻想を超えて、現実を知るということだ。