2015年8月28日金曜日
スピリット・ウェイカー:ヨガへの道 #19
神は常にそこに存在している。
誰に知られることなく、誰よりも私たちのそばに存在している。
私たちは普段、神の存在を意識することはない。
普段の生活の中では神がいようがいまいが関係がない。
もちろん、神の存在を信じている人もいるだろう。
それでも日々の生活の諸問題が現実的に大切なことで、神の存在は二の次だ。
そもそも神は自分の存在をあまり主張しない。
神が神を信じなさいと私たちに語りかけることもない。
そのため私たちは神の存在をファンタジーのように感じている。
それに神の存在を信じたところで、実際に何かが変わるわけでもない。
そのことで神が願い事を聞き入れたり、人生の便宜をはかることもない。
神話においてはそんな話もあるが、
それが本当のことであり、それが本当の神かどうかも分からない伝説の話だ
現実の人生において、神が神自身を主張してくることはないのだから、
私たちが神の存在や神の恩恵なども分かるはずもない。
そこで私たちは疑問に思う。
神は本当に存在するのだろうか。
もし神が存在するなら、
その存在は私たちにとって本当に必要な存在なのだろうか。
現実的に私たちは神の存在よりも、
財産であったり、健康であったり、娯楽や仕事、人間関係などを大切にしている。
そういったことが、神の存在よりも自分を幸福にしてくれると思っているからだ。
思っているだけでなく、現実にそうだと実感している。
神が存在すると信じることは、私たちに謙虚さをもたらす。
謙虚さは美徳であり、それは私たちが幸福に成る上で大切な要素だ。
謙虚さは財産や健康、娯楽や仕事、人間関係の質を上げるために必要だ。
そのために、私たちは神を信じるようにしているということはある。
それが存在するかどうかも知らない神からの恩恵だと思い込むのだ。
そういった私たちの思い込みは別として、神は本当に存在するのだろうか。
存在するとすれば、神とはどんな存在なのだろうか。
神は存在する。
神とはこの宇宙を構成している最小単位だ。
その最小単位とは「存在」だ。
すべては存在している。
この宇宙には様々な形態のものがあるが、存在でないものは存在していない。
神が私たちに最初に与えたものがこの「存在」だ。
そしてこの存在こそが神自身なのだ。
私たちは自分が存在していると知ることができる。
つまり、私たちが存在しているなら、私たちは神そのもので出来ている。
私たち自身が神であり、神は私たちの最も身近なところに存在しているのだ。
私たちは神が存在するとかしないとかの議論をするかもしれない。
だが、現実として私たちが存在するなら、
その議論の結論にかかわらず、私たちもその議論も神で出来ている。
私たちの問題とは、自分が神だと知らないことだ。
自分がこの神だと知ることがヨガの道だ。
私たちは瞑想によって、身体や思考、感情、記憶を超え、
自分自身の根源である「存在」を認識することができる。
この「存在」を認識し、さらにそれが自分自身の核なのだと理解することで、
私たちは神自身になる。
私たちが神になることで何かの恩恵はあるだろうか。
私たちが神になることによる恩恵は何も無い。
その恩恵を求めているのは個人としての存在だ。
もし、神になることで超人的な能力や自分に都合のいい世界を求めるなら、
それはまだ自分が神であることを理解していない。
それは神を信じようとしている個人のレベルにある。
まだ神のことを自分ではない何かだと思っているのだ。
神になることで、それで何の恩恵もないという当たり前のことを当たり前として受け入れることで、
初めて自分が神だと理解しているという状態になる。
それが本来の自然な人間の在り方なのだ。
今までが少しずれていただけに過ぎない。
私たちは自分は神ではないという誤解を解いて、
自分が神だと知っただけのことだ。
神は善悪や好悪を超えている。
すべての素材である神はそれに影響されて変化することはない。
私たちは変化しない神を核として、
変化する思考や身体をまとって生きている。
絶対不動の神が中心にあることで、
私たちは変化するものを変化するものとして受け入れることが出来る。
世界や身体や思考が変化することで、私たちはそれに反応するだろう。
それは良い反応も悪い反応もある。
その良し悪しの中にも神は存在している。
私たちはすべての物事には自分と同じ神が存在していることを知っている。
自分自身が神だと知れば、すべての変化が神だということも知るだろう。
私たちはそういった神の視点で生きていくことになる。
これがヨガとして生きるということだ。
