2015年10月12日月曜日

スピリット・ウェイカー:ヨガへの道 #24



目に見えないものを人は信じない。
だが、自分自身の真実は目には見えない。
それでもそれは真実として存在している。

私たちは目に見えるものを信じている。

目に見えるものは誰にとっても真実であり、
それは確かなものとして共通の認識を得ることができる。

誰もが認めることを信じることはとても安心感がある。

もし自分にしか見えないものであれば、他の人はそれを信じることができない。
そのため、自分にとってもそれが信じられるものかどうか不安になる。

ある人がそこに何かが見えると言って指差しても、
そこに何も見えなければ、そこに何かがあることを信じる人はいない。

誰もそれを信じなければ、自分で見えていても信じられなくなる。

それは幻なのかもしれない。
それをまるで真実のように思い込んでいるだけかもしれない。

そうしてその真実を無視するようになる。


だが、自分にしか分からない真実もある。
それを認める人が誰もいなくても、自分自身でそれが真実だと分かる。

本当の自分自身がそれだ。

それは目に見えない。
そこにあると指を差すこともできない。

自分でもそれを目にすることもできない。
それでも本当の自分自身は存在する。

本当の自分自身は存在そのものだ。

その存在は客観的なものではなく、
自分自身そのものなので目にすることはできない。

目にすることができないから存在しないという理屈は存在には当てはまらない。
それは目には見えないが、主体として確かに存在している。

私たちは目に見えないという理由で、その存在を無視している。
誰もそれを認めることができないので、それを信じない。

そのため私たちは本当の自分自身をいつまでも無視している。

本当の自分自身を無視して、
光り輝く魂とか、素晴らしい景色の記憶とか、日常の生活を自分自身としている。

それは理解できないことではないが、本当の自分自身ではない。

目には見えない真実、
私たちはそれそのものになることで、それを理解する。

目で目を見ることができないように、
目に見えないからといって目の存在を否定することができないように、
本当の自分自身は存在する。

私たちはいままでの客観的な自分自身から、
主観としての本当の自分自身へと変わることができる。

そのためには本当の自分自身に目を向けなければならない。
そして最後にはその目を向けることをやめて、それとひとつに融合するのだ。

それは自分として当たり前の状態だ。
誰もがいつでも自分自身でいるのだ。

だが、いままでは自分の身体や心や能力、記憶、状況を自分自身にしてきた。

そんな変化するものを自分自身としてきたので、
私たちはいつまでたってもあいまいな自分自身でしかなかった。

本当の自分自身は存在として変化しないため、そこでひとつになるだけで満たされる。
あいまいだった自分自身がそこで完成される。

それでも私たちの身体や心、能力、記憶、状況は、いままで通り変化していくだろう。
それは世界のことなので止めることはできない。

だが、本当の自分自身はその中心にあって変化することがない。
そのため変化するものをすべて受け入れることができる。

目には見えず、説明することも難しい自分自身。
だが、私たちはそれが存在するという真実を直接自分自身で理解することができる。

その真実だけが自分自身の拠り所となる。