目覚めることは現実を知ることだ。
現実とはいまここに自分が存在しているということだ。
意識が目覚めるとはどういうことなのか。
それは何が現実かを自分自身で知ることだ。
それを知ったとき、これが意識の目覚だと分かる。
意識の目覚めはぼんやりとした神秘体験ではない。
それは否定しようがないほど明らかだ。
私たちにとって一番明らかなことは自分が存在しているということだ。
このことは世界が存在しているかどうかよりもはっきりとしている。
だが、実際に私たちは自分自身よりも世界の物事を現実のようにはっきりさせようとしている。
私たちは世界の物事から何かを手に入れて、それを自分自身にしようとしている。
そのため、世界の平和や苦痛が現実かどうかを見極めようとする。
それが自分自身の平和と苦痛に直結するからだ。
そうして私たちが世界を現実として見れば見るほど、私たち自身の現実は離れていく。
世界は現実かも知れないが、
それは自分ではないので確かなものと断定することができない。
世界の現実はどうしても想像の域を出ないのだ。
私たちはその世界を現実だと見なそうとするため、
いつも現実を失ったまま生きている。
世界は私たちがどういう人間になろうとも、いつまでも不確実のままだ。
私たちはその事実から目をそらして、
何とかして世界を現実にしようとしている。
そして世界を現実にして、
自分もそこで自分自身を現実にしたいと思っている。
だが、世界が不確実なら、
それを自分自身にしようとしている自分も不確かでしかない。
私たちは現実ではない世界を現実にしようと苦悶している。
そのときの私たちの目は現実を見ていないので眠ったままだ。
私たちの唯一確かめられる現実は、
自分自身がここに存在するということだ。
世界に向けていた目を自分自身に向けたとき、
私たちはそこに存在している自分自身を知り、そこで現実に目覚める。
自分がここに存在することは間違いのない現実だ。
それは世界を現実にすることよりも、確実に知ることができる。
自分がここに存在するという現実、
これこそが私たちが認めるべき現実だ。
この存在の現実を悟ったとき、
存在というのは自分だけでなく、世界の存在と共通だと知る。
そして世界が現実だと知るのだ。
それは自分自身の現実を知った後でなければ知ることが出来ない。
私たちが目覚めれば、自分自身の中心に位置する存在というところにいる。
そこから私たちは現実の世界を見渡すことができる。
存在は身体や心、世界の何かという位置からでは、
世界の全体像を見ることは出来ない。
存在は私たちの新しい視点だ。
この新しい視点に立つことが私たちの目覚めなのだ。
