すべては本当の自分自身との統合(ヨガ)へと向かっている。
誰がどんなことをしても、それは統合(ヨガ)への道に他ならない。
私たちは何のために生きているのだろうか。
その明確な答えはよくわからなくても、
私たちは明日を生きようとしている。
私たちは何かをして、収入を得て、消費して、満足して生きる。
私たちは日々満足し、安心し、喜び、安定することを願っている。
満足するために何をするかは人それぞれ違うだろう。
その何かは世界中に無数の選択肢が用意されている。
私たちはその何かを世界の中に探しだし、
どれが一番自分を満足させられるかを分析し、その選択を判断している。
これは終わりのない作業だ。
私たちは毎日、このことを何の疑問もなく繰り返し行っている。
この事実は、その生き方が間違っているということではない。
それは人間としてごく自然な生き方だ。
だが、私たちはそれを何度繰り返しても最終的に何かに満足することはない。
いつも一時的な満足しか得ることができず、完全な満足に落ち着くことがない。
実際に私たちが探しているものは存在だ。
存在とは決して消えることのない満足だ。
私たちが世界で探しているのはそれだけなのだ。
私たちはその存在を見つけることができずに、
終わることのない探求という作業を続けている。
世界のすべてのものは存在で出来ている。
私たちが世界で何かを求めるのは、それが存在で出来ているからだ。
私たちが求めるものが間違っているわけではない。
だが、私たちは存在を求めながら、実際には世界の物事に目を惹きつけられる。
私たちにとって物事はとてもはっきりとしているように見えるからだ。
それは自分の身体で感じられ、それを他の誰かも認めることが出来る。
そのため、私たちは物事が実体であると信じて、それが探すべき存在だと信じてしまう。
だが、私たちが求めていたのは存在そのものだ。
物事は存在を覆っている外皮でしかない。
外皮は雲のように常に変化しているため、必ず失われる。
私たちが外皮を求める限り、得たものは必ず失うことになる。
だが、外皮を失っても、存在は失われていない。
私たちは存在を認識することが出来ないため、
そこで存在が失われていないということを理解できない。
そのため、私たちは物事が失われると、
また存在を求めて、世界の物事を探しに行くのだ。
私たちが求めているものは間違っていない。
だが、求めるものは二面性を持っている。
それは外皮としての物事とその素材としての存在だ。
私たちは存在を求めながら、現実的に理解できるのは外皮だけだ。
私たちは存在を知らなければならない。
存在を認識できる目を持たなければ、いつまでもそれを理解することが出来ない。
それを持たなければ、
私たちは必ず失われる外皮を求めて永遠に世界を放浪することになる。
私たちは世界の物事を探し求める目を自分自身に向けることが出来る。
自分自身でさえ、世界の物事のひとつだ。
私たちの身体は日々変化し、思考でさえ毎秒変わっている。
そこに目を向けることは、世界を求めることとそれほど変わらない。
私たちの身体や思考も世界の物事と同じように、
存在という素材でつくられている。
世界の物事はその外皮が失われると同時に消滅してしまうように見える。
だが、自分自身の中においては、その外皮が失われても消滅しない存在を感じることが出来る。
自分自身を求めることは世界の物事を求めることと同じだが、
そこに存在を見つけやすい状態になるのだ。
私たちは自分の身体を超えて、思考を超えて、その先に目を向ける。
そこには何も無い。
何も無いが、ひとつだけ存在している。
それは「何も無い」ことを知っている知性だ。
それが私たちの素材である存在だ。
この存在はとても見落としやすい。
誰もが「何も無い」というところで終わりにしてしまう。
私たちが世界を探し回っても、最終的にはそこに行き着く。
宇宙の果ての向こう側は何があるのか。
その答えは「何も無い」だ。
物質の一番小さな物は何か。
それも「何も無い」だ。
そこに何も無い以上、
私たちはそれ以上分析することができないと結論付ける。
それが自分自身の中であれば、そこで「何も無い」状況になっても、
それを知っている知性が、そこにあると気がつくことが可能だ。
その知性を消すことは出来ない。
それを感じないようにすることはできる。
だが、それは感じないとしても絶対になくならない。
そうして私たちは自分自身の中の「何も無い」というところに、
そのひとりだけ存在している誰かを知る。
それが私たちの素材である存在であり、
探し求めていた完全な満足という真実そのものだ。
そこは世界と自分を含めたすべての統合点であり、
すべての共通の起源であり、私たちが戻るべき場所だ。
私たちはこの完全な自分自身を見つけるまで、
満足できるものを求めて世界を探し続ける。
その探し求めることを続けていれば、
私たちはいつかその対象を自分自身に移して、
そこでこの統合点を見つける。
私たちが世界を探す行為は間違っていない。
最終的に、私たちは決して変わることのない、
失うことのないものを見つければいいのだ。
それは私たち自身の中にいつも宿っていて、
直接見つけられることを待っている。
それを見つけたとき、
私たちはすべての世界の物事に宿る存在を見る目を持つだろう。
私たちがその統合点にいれば、
すべてが存在という素材で創造されていることをはっきりと理解できる。
その視点で見れば、
いままで求めてきた外皮としての世界の物事さえ、
この存在で出来ていると分かる。
自分自身が存在という素材になることで、
世界の物事と素材というレベルでの密接なつながりができるからだ。
そこで初めて、
すべては存在であり、すべては自分なのだと知る。
まるで違う物事のようであっても、
その中ではすべてはつながっていて、
分けることが出来ないひとつの存在だということだ。
世界の景色も、個人的な夢も、正しいことや間違っていることも、
それらはたったひとつの素材で創られている。
それらがいつか消え去ってしまうとしても、
その素材である存在は消えることなく、また別の物事の素材となる。
私たちはこの真実を知ることができる。
それを知ることで、私たちは完全に満たされることができる。
なぜなら、それを知ることは私たちが世界すべてになることであり、
そこで何かが不足するということは起こらないからだ。
私たちは世界で満たされることを求めることから解放される。
そうであっても、私たちは世界で何かを求めるだろう。
私たちが真実をすでに知っているなら、
私たちが世界で消えてしまう何かを求めることはただ求めることになる。
私たちは満たされる必要がなくなったため、
求めるもので満たされなければならないという制約から自由だ。
もし求めるということが自然に起こったとしても、
それは満たされる必要がないことだ。
言い換えれば、すでに真実を知っている私たちは、
世界を求めるということから真実を得る必要がない。
そのため求めるということは何の義務もなくなり、
純粋に求めるということになる。
つまりそれは自由だということだ。
自分を満たすために楽しむのではなく、楽しむために楽しむ。
私たちは楽しむことで自分を満たす必要はない。
楽しんだ次の瞬間には、楽しみは楽しんだことを失うだろう。
それでも真実が自分から消えることはない。
