心を磨くことはマインドの動きを正すことではない。
マインドは動くため、マインドを最良の状態にとどめておくことはできない。
心を磨くとは動くことのない自分の心の中心部まで遡ることだ。
そこまで遡ることで、変わることのない本来の自分になることができる。
自分の心を磨くにはどうしたらいいのでしょうか。
そのために私たちは静かに瞑想をする時間を持ち、
自分自身と向かい合います。
自分の弱さや苦悩を認めて、それと対峙します。
逃げてきた問題に取り組むことを始めます。
いつでも感謝をする気持ちを忘れないようにし、
心穏やかでいることを心がけます。
私たちはそうして自分の心の在り方を変えることで、
きっと心は磨かれていくものだと思っています。
それらはとても良いことですが、どこかに限界点があります。
瞑想をしていても、考えや感情に振り回されることがあります。
ただ漫然とした時間を過ごすだけかもしれません。
苦悩を乗り越えていくことは自分を大きく成長させますが、
それで自分の苦悩が終わるわけではありません。
感謝する気持ちは忘れがちで、
心が穏やかでいられる時間は自分に何の問題もないときだけです。
私たちは心とはマインドだと思っています。
そのため、良いマインドになることが心を磨くことだと信じています。
そもそもマインドというものは動く性質を持っているので、
落ち着くということがありません。
それを一定の状況に留めるということは無理があることです。
ですから、心を磨いて、どれだけマインドを最良の状態にしようとしても、
その方法ではどこかで限界点を迎えます。
マインドが最良の状態になったとしても、それが固定化されることはありません。
必ずマインドは変化してしまいます。
そんなとき、私たちは心を磨くことは難しいことであり、
だからこそ一生の課題として取り組むことなのだと妙に納得します。
でも、心を磨くということは、
そうしてマインドの在り方を変えることではありません。
心を磨くとは自分の心の核心に迫ることです。
変化するマインドの思考や感情の領域を乗り越えて、
その思考や感情が生まれてくる原点に迫っていきます。
まるで宇宙の始まりの一点を見つけ出すように、
瞑想によって最も純粋な自分自身の原点へとさかのぼって行くのです。
このことは今まで積み上げてきた自分の徳をも捨て去ることになるので、
私たちはそれに抵抗し、そうすることに意味があるのか疑問に感じます。
それよりも心穏やかでいるように心がけたり、
感謝の気持ちで生きていった方が、
人間らしい成長が見込めるのではないかと思います。
もちろんそのことを否定することはできません。
私たちがそうしたければそうするべきです。
でも、それは本当の意味での心を磨くということにはなりません。
それは表面的な見栄えを良くするようなことで、
自分自身の芯から磨かれるということにはならないのです。
それは自分がどこまで心を磨きたいのかという思いに拠るところがあります。
表面的なことで十分だと思えば、私たちはそこまでしか行かないでしょう。
ただ、綺麗だったその表面はいずれ汚れていきます。
また、動きを性質とするものは、都合のいいようにばかり変化するわけではありません。
私たちはそんな心の表面的な物事を削っていき、
もうこれ以上削ることができない一点まで削ぎ落としていくことができます。
そして、もう何も削り落とせないところ、そこが自分の中心点です。
そこはただ中心として存在しています。
静かでどこにも動きがありません。
これが私たちの中心であり、完全に磨かれた心そのものです。
それは動きがないため、いつも穏やかです。
そこはいままでの自分の心の性質とは大きく違っています。
マインドと違って、あれこれと変化することがありません。
それは無理やりそうしているのではなく、
私たちの心の中心部は本来そういう性質なのです。
私たちはこの中心部にまで心を磨くことで、
正そうとしてきた考えや感情さえも、その存在を認めていきます。
マインドは自由に動き回ってもいいということを認めます。
だた、そうして心が磨かれたあとは、マインドが自分自身だとは思っていません。
それは思考が思考しているのであり、感情が感情を表現しているということです。
それをいつでも知っています。
私たちはいつでも心の中心部にいます。
それを完全に知ったなら、そこから離れることはありません。
人生がどれだけ苦悩に満ち溢れていても、
あるいは幸福ばかりが身の回りに起こったとしても、
自分は自分として変わることなくそこにいます。
そう頑張っているのではなく、そう在ることしかできません。
私たちは心の表面的なところだけを綺麗に磨くだけではなく、
そこを削りとって、それ以上削ることのできない中心部になることができます。
そうして私たちの心は本当の意味で磨かれていくのです。