思考は現実化するかもしれないが、それで願望が終わるわけではない。
次から次へと思考は起こり、そして願望の現実化と非現実化をそこに見る。
最終的に思考は何を望むのだろうか。
それは絶対的な自分自身の現実化だ。
思考は現実化すると言われています。
自分の望むことを思い続ければ、それは現実化するというのです。
思考とは何でしょうか?
それは何かについて考えるということです。
それはどこからやってくるのでしょうか。
それは自分の心の奥から自然に湧き上がってきます。
私たちはこの思考をコントロールすることができません。
つまり私たちが考えることは、
自分の意志とはまったく違うところで働いているということです。
自分の望む思いさえ、
それは自分の望むことなのかどうかわかりません。
思考は心の中に数限りなく湧き上がってきます。
そのほとんどの思考はただの考えとして浮かんでくるだけですが、
そのうちの幾つかは実際に現実となるかもしれません。
そのとき、私たちは思考が現実化したと感じます。
でも、自分の本当に望むことが現実化したのかといえば、
実際にはたまたまそうなったということでしかありません。
なぜ私たちは思考を現実化したいと思いついたのでしょうか。
私たちは何かしらの望みを持っています。
それを手軽に現実化できるなら、そうしたいと願っています。
ただ考えるということは簡単なことです。
それで望みが叶うなら、私たちは試してみようと思うでしょう。
ただ、なぜその望みが自分の中に現れたのか説明することができません。
自分の不足感を満たしたいから、それを望んだのだと言うかもしれません。
でも、なぜその望みだったのかの理由が不明確です。
なぜ他の望みではなかったのでしょうか。
そうして私たちはわけも分からずに、
数限りない望みを持ち、その現実化と非現実化を繰り返しています。
なぜ思考は私たちの意識に関係なく心の中に沸き起こり、
そしてそれは最終的に何を望んでいるのでしょうか。
それは思考自身が自分の出処を知りたいからです。
思考は自分が何者なのかを知りたいのです。
思考には、物質ではない考えを物質的な現実にすることで、
自分という存在を確かなものとして認めたいという思いがあります。
思考にとってはどんなことが現実化するかは問題ではありません。
それよりも、現実化することで自分に起こった考えをリアルに確かめたいのです。
でも、考えが現実化しても、それらの物事はいずれ消えていきます。
そにため思考は数限りない望みを心の中に送り込みます。
そのすべてが明らかに失敗してきました。
それらは思考の望んでいる確かな自分自身にはならないからです。
ある思考は瞑想するという選択をします。
それは自分に何かをもたらしてくれるかもしれないと期待を抱きます。
そんな思考も私たちの心の中で自動的に起こります。
そして私たちは自分の意志のように瞑想することを決めます。
瞑想は「空]の経験や静寂の時間を与えてくれます。
でも、それは自分にはなりません。
それらは経験として時間の中で消化されていきます。
思考が現実化したいのは確かな自分自身です。
最終的に思考が望んでいることはそれだけです。
思考は無駄なことに時間を費やしているわけではありません。
思考が望んでいるリアルな自分は現実化することができます。
でも、それを実現するためにはいくつかの障害を超えなければなりません。
ひとつは思考は自分自身ではないと認めることです。
私たちは思考を自分自身だと思っています。
でも、思考は自分自身ではありません。
私たちの考えも感情も記憶も自分自身ではないのです。
私たちはこのことに抵抗します。
私たちが思考は自分であるべきだという思いを捨てられないのであれば、
私たちは最終的な望みの現実化を諦めなければなりません。
もし、私たちが思考を自分ではないとして、それを捨て去ったとしても、
私たちはその代わりに自分となるものを見つけなければなりません。
そうでなければ、
自分自身の存在が消えてしまうという恐ろしい状況に陥ると考えます。
これが次の障害です。
でも、ほとんどの場合、思考以外の自分自身を見つけることができません。
そのため、私たちはそこで確かな自分自身を望むことを諦めます。
そして思考という小さな枠の中で知識や経験だけをいたずらに増やしていくのです。
もちろんそれらが自分自身になることはありません。
この障害を打開するためには、確かな自分自身を見つける必要があります。
瞑想はこの自分自身を見つける能力を持っています。
瞑想によって確かな自分自身を見つけること、
このことだけが思考が満足できる望みの現実化の最終手段なのです。
もし私たちが本当の自分を見つけたとしても、
心の中に考えが浮かび、そこから行動することもあるでしょう。
でも、その時の自分は思考ではなく、本当の自分自身だと知っています。
その自分自身はどんな思考が浮かんでこようが変えられない事実となります。
この事実が思考の究極的な現実化です。