その一箇所を信じ切る必要がある。
だが私たちはその一箇所を信じ切ることができない。
たとえそこが自分自身の中心だと分かっても、
必ずそこからズレていく。
ズレていって、
そのズレたところが自分自身なのだと信じようとする。
私たちが戻る唯一の場所は形がない。
だが、私たちのマインドは形を求める。
マインドは形のないものに、
なかなか留まることができない。
形のあるものが見えたなら、
それを追い求め、それを自分自身にしようとする。
至高体験、光に満ち溢れた世界、静寂の感覚、
果てしない場所にいること、そのすべてがマインド求める形だ。
どんなに神秘的で真実に見えることでも、
それは自分自身の中心からズレた場所だ。
自分自身の中心の近くであるほど、
感覚は繊細になり、至福感は増していく。
そこで体験されることは、
言葉で言い表せないほど神秘的で感動にあふれている。
このことが瞑想で起こることは真実だ。
そんな体験が起こることは悪いことではない。
むしろ素晴らしいことだ。
だがそこは私たちが戻るべき唯一の場所ではない。
その場所はいつも変わることがない。
何も起こらず、何も考えず、色も形もなく、
ただ存在している。
それはあらゆることの根源だ。
何も動かず、形もなく、
何の性質もないからこそ、根源になり得る。
だがマインドが動きや、色や形、性質といったものを求めるため、
私たちは唯一の場所を理解できずに捨て去る。
その場所を捨て去って、
体験や能力、特別な性質をつかみ取ろうとする。
それをつかみ取って自分自身にしようとする。
私たちには探求するという力が備わっている。
この力は自分自身を見つけるために必要だ。
忘れていた自分自身を見つけるという、
究極の目的のために使われる力だ。
この力によって、
私たちは本当の自分自身を見つけ出す。
だが探求する力は止まることなく、
やっと見つけた唯一の自分自身から、
また探求することをする。
これが体験を求める力だ。
自分自身の唯一の場所は透明で無であるため、
マインドはそこで満足はしない。
マインドはそこで満足はしない。
マインドがそれについて理解不足のため、
形を求める探究心を抑えることができない。
マインドは無価値の価値を知ったとしても、
そこからまた形あるものを探求してしまう。
そうして唯一の場所から離れてしまう。
せっかく見つけた唯一の場所を忘れ去り、
道を失った修行者がどれだけいただろうか。
意識の覚醒の近くには、
こういったマインドの流れが潜んでいる。
このことに対処するにはどうすればいいか。
どんなことがあってもその唯一の場所を離れないことだ。
どんなことがあってもその唯一の場所を離れないことだ。
神秘的で幸福感に満ちた体験は起こる。
それを否定する必要はない。
だがそれは自分自身の中心ではない。
自分自身そのものでもない。
自分自身の唯一の場所を失わなければ、
どんな体験が起こっても問題ではない。
それを自分自身に取り込もうと必死になる必要なく、
ただそれを感じて楽しむことができる。
自分自身が戻るべき唯一の場所、
いつでもそこにいることだ。
どんなに素晴らしい天界が目の前に現れようとも、
そこから一歩も出てはならない。
だが私たちは失敗する。
何度も何度も失敗する。
せっかく手に入れた覚醒を失い、悟りや啓発を失う。
再び体験に勝ちを求める世界に身をうずめる。
そして何度も転生を繰り返す。
だが失敗すればするほど、私たちの理解は深まっていく。
なぜ失敗するのかを何度も知ることになるからだ。
そうして時間をかけて、唯一の場所から出ないことを覚える。
私たちが何度失敗しても、
唯一の場所が失われることはない。
そこはじっと私たちが戻ってくるのを待っている。
私たちがそこから離れてしまっても、
無理に引き止めることもしない。
私たちがそこから離れていると思っていても、
そこはいつでもそばに居てくれる。
私たちが自分でその存在を知り、
それが自分自身だと理解し、そこから離れないと選択するまで、
それはいつまでもそこにいて、私たちを待ち続ける。