2014年2月24日月曜日

28. 瞑想で自分の中心を理解するには形のないたったひつの場所に戻り続ける

瞑想で戻るところはたった一箇所だ。

その一箇所を信じ切る必要がある。
だが私たちはその一箇所を信じ切ることができない。

たとえそこが自分自身の中心だと分かっても、
必ずそこからズレていく。

ズレていって、
そのズレたところが自分自身なのだと信じようとする。

私たちが戻る唯一の場所は形がない。
だが、私たちのマインドは形を求める。

マインドは形のないものに、
なかなか留まることができない。



形のあるものが見えたなら、
それを追い求め、それを自分自身にしようとする。

至高体験、光に満ち溢れた世界、静寂の感覚、
果てしない場所にいること、そのすべてがマインド求める形だ。

どんなに神秘的で真実に見えることでも、
それは自分自身の中心からズレた場所だ。

自分自身の中心の近くであるほど、
感覚は繊細になり、至福感は増していく。

そこで体験されることは、
言葉で言い表せないほど神秘的で感動にあふれている。

このことが瞑想で起こることは真実だ。
そんな体験が起こることは悪いことではない。

むしろ素晴らしいことだ。
だがそこは私たちが戻るべき唯一の場所ではない。

その場所はいつも変わることがない。

何も起こらず、何も考えず、色も形もなく、
ただ存在している。

それはあらゆることの根源だ。

何も動かず、形もなく、
何の性質もないからこそ、根源になり得る。

だがマインドが動きや、色や形、性質といったものを求めるため、
私たちは唯一の場所を理解できずに捨て去る。

その場所を捨て去って、
体験や能力、特別な性質をつかみ取ろうとする。

それをつかみ取って自分自身にしようとする。

私たちには探求するという力が備わっている。
この力は自分自身を見つけるために必要だ。

忘れていた自分自身を見つけるという、
究極の目的のために使われる力だ。

この力によって、
私たちは本当の自分自身を見つけ出す。

だが探求する力は止まることなく、
やっと見つけた唯一の自分自身から、
また探求することをする。

これが体験を求める力だ。

自分自身の唯一の場所は透明で無であるため、
マインドはそこで満足はしない。

マインドがそれについて理解不足のため、
形を求める探究心を抑えることができない。

マインドは無価値の価値を知ったとしても、
そこからまた形あるものを探求してしまう。

そうして唯一の場所から離れてしまう。

せっかく見つけた唯一の場所を忘れ去り、
道を失った修行者がどれだけいただろうか。

意識の覚醒の近くには、
こういったマインドの流れが潜んでいる。

このことに対処するにはどうすればいいか。
どんなことがあってもその唯一の場所を離れないことだ。

神秘的で幸福感に満ちた体験は起こる。
それを否定する必要はない。

だがそれは自分自身の中心ではない。
自分自身そのものでもない。

自分自身の唯一の場所を失わなければ、
どんな体験が起こっても問題ではない。

それを自分自身に取り込もうと必死になる必要なく、
ただそれを感じて楽しむことができる。

自分自身が戻るべき唯一の場所、
いつでもそこにいることだ。

どんなに素晴らしい天界が目の前に現れようとも、
そこから一歩も出てはならない。

だが私たちは失敗する。
何度も何度も失敗する。

せっかく手に入れた覚醒を失い、悟りや啓発を失う。

再び体験に勝ちを求める世界に身をうずめる。
そして何度も転生を繰り返す。

だが失敗すればするほど、私たちの理解は深まっていく。
なぜ失敗するのかを何度も知ることになるからだ。

そうして時間をかけて、唯一の場所から出ないことを覚える。

私たちが何度失敗しても、
唯一の場所が失われることはない。

そこはじっと私たちが戻ってくるのを待っている。

私たちがそこから離れてしまっても、
無理に引き止めることもしない。

私たちがそこから離れていると思っていても、
そこはいつでもそばに居てくれる。

私たちが自分でその存在を知り、
それが自分自身だと理解し、そこから離れないと選択するまで、
それはいつまでもそこにいて、私たちを待ち続ける。