瞑想は自分自身を探求することだが、
あるポイントでそれを止めなければならない。
あるポイントとは自分自身に触れている場所だ。
そこでは自分自身を探求してはならない。
そこでは探求に関するすべての活動を休止させる。
残っているのは純粋な集中力だけだ。
何かの対象に向けた集中ではなく、それはただの集中だ。
そこで何かの対象にマインドが動き出せば、
その集中はその他の何かに向けられる。
それに気がついたら、
また自分自身の場所に戻り集中だけを維持する。
そこで初めて自分自身で在ることが自然になる。
言葉では簡単だが、
この繊細な感覚を捉えることは難しい。
なぜならマインドはいつもそこにいて、
あちこちに集中を移しながら、
何か情報を得たいと思っているからだ。
何か情報を得たいと思っているからだ。
この活動がある限り、
集中を一箇所に留めておこうとしても、
マインドはその性質によって動きたがる。
私たちはすぐにマインドの動きの中に埋没してしまう。
だが私たちは本当の自分自身を理解するために、
この難しい課題に取り組まなければならない。
そのために意識には集中するという力がある。
このポイントを探し出すことと、
何かを探しだすことを止めて、そこに留まることは、
自分自身で感じ取らなければならない。
何度も試行錯誤してそこに近づき、
そして集中力を残して止める。
そこにはたくさんの失敗がある。
失敗すれば、
それは真実ではないのかもしれないという疑念が起こる。
結果を何も残せず、成功への足がかりもない。
私たちが次に取る行動は、
そこでの努力を諦めるということだ。
瞑想など何の意味もなかったと結論付ける。
そこでの努力を失えば、
またマインドの活動の中に埋没するだけだ。
私たちはまた自分自身を無視し、蔑ろにし、排除する場所に戻る。
自分自身を探求することを止める。
だがそこは探求を止めるポイントではない。
そこはまだ探求が必要な場所だ。
探求を止める場所は、
探求するところそのものでなくてはならない。
私たちがその場所を失えば、
自分自身を満たしてくれる対象を探す。
世界に存在する仕事や財産、
パートナー、娯楽、夢中になれる何か。
そしてそれらは決して自分自身を満たすことはないという経験を重ねる。
その経験から再び自分自身を満たす何かではなく、
自分自身そのものを探そうとする。
瞑想をして自分自身を見つける。
そこで探求への不信が起これば、
また振り出しに戻る。
だが失敗を重ねて賢くなった魂は少し粘り強くなっている。
自分自身にタッチしているところで探求をやめて、
そこで集中だけしている。
マインドが動き出しても、
迷うことなくそこに戻ることができる。
目の前に神秘的な光景が現れようともそこに戻る。
そこにいることに何か疑問が起こっても、
ひたすらそこに戻る。
それをすることに価値があるかとか、効果があるかとか、
幸福な人生を送れるかとかを期待していない。
それはすべてマインドの動きである思考だ。
そこに戻ればまた振り出しだ。
マインドがあちこちへと焦点を当てる人生に戻ってしまう。
ただ集中してそこに居ることだ。
そこに居ることでしか、
自分自身の真実は得られない。
そこだけが完全であり、変化することなく、
自分の中心を任せられる場所だ。
粘り強くそこに居て、マインドに埋没しないことで、
次第にそこが自分にとって自然になる。
最後は探求しないことで自分への探求が完成される。